畏友・故稲田耕一とツバロン港
サンパウロ、1997年8月
森田 左京
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<はじめに>
最近、横田パウロ、二宮正人両氏の編・訳による「戦後の日伯経済関係」を読む機会にめぐまれたが、そのあとがきに二宮氏が「かってエリエゼル・バチスタが日本政府より勲一等瑞宝章を贈られた際、授賞式における挨拶で、(日伯関係における今日の自分があるのは、稲田氏のおかげである)と本人を前にして言わしめた・・・・」と稲田のことを紹介している。
その稲田も今年(1997年)3月14日、東京の虎ノ門病院で亡くなったのだが、長年の友人として私はその死に目にもあえず、告別式にも立ち会えなかったので、いまだに彼が死んだことを信じきれない気持ちでいる。
おたがいに筆不精で、自分たちのやった仕事を書きとめておくほどの熱意も文章力もなく、すべて済んだことだとして、二人で話し合うときに、ああだったとか、こうだったと酒の肴にしているだけだった。しかし稲田がいなくなると、なんとなく昔話も記録に残しておいてもいいのではないかと考えるようになり、追悼のつもりで筆を執った。
戦後の日伯経済関係でだれもが想い出すのはウジミナスである。この歴史については「ウジミナス物語」(中川靖造著、産業能率短期大学出版部、1974年)という好著があり、ブラジルに製鉄所を築いた男たちの記録として残されている。
リオドセ社は最近の民営化で新聞紙面を賑わせ、5月6日には二つのグループが競売に参加し、日本の製鉄・商社連合も加わったボトランチン・グループが敗退したことは記憶に新しい。バーレといえばリオドセ社を意味するのだが、本稿ではリオドセ社を使うことにした。
40年ほど前には、田舎の鉱山会社に過ぎなかったリオドセ社が、現在、時価評価100億ドル以上、鉄鉱石年産1億トンに達する世界の一流企業になったのは、ツバロン港なくしては実現できなかっただろう。これはエリエゼル・バチスタの天才的な構想、支援を惜しまなかった日本の製鉄業界、その架け橋になった稲田たちの努力の成果ともいえる。1962年の長期契約成立ののち、ニブラスコ(ペレット)、アルノルテ(アルミナ)、アルブラス(アルミ)、セニブラ(パルプ)、ツバロン製鉄(鉄鋼)など多方面の合弁事業に展開、発展していった。
当時の関係者の一人として、おぼろげな記憶を頼りにまとめたもので、もっと調査に時間をかけ当時の資料を渉猟すれば、まともな「ツバロン港物語」にもなるかもしれないが、これは後人に任せることとする。ブラジル政府は稲田に対し南十字星勲章を贈ってその貢献に報いたことを付記する。
<ブラジルへ移住>
1949年(昭24)は国立大学の旧制、新制の切り替えが行われたため、入試の時期も遅れ、東京大学では入学式は7月7日だった。翌日から開講となったが、運動部の募集で、駒場のキャンパスの芝生の上にはいくつものグループができていた。私はヨット部に入ったが、稲田は旧制一高のヨット部出身とのことで、そこで初めて知り合った。ヨットの寮室は北寮で、授業にもあまり出席しないで、よくダベって過ごした。
私は工学部機械工学科に進んで、1953年(昭28)に卒業し、電業社原動機製造所に入社した。この会社は発電用の水力タービンのメーカーで、戦前は水豊ダムの発電所に納入したこともあり、私の入社当時からは、日本経済の回復もあり、電力開発では佐久間ダムの工事も始まって多忙を極めていた。
稲田は肋膜炎で1年留年してから、理学部数学科を1954年(昭29)に卒業、「ブラジルに行く」と宣言して7月にオランダ船テーゲルベルグ号で横浜を出発した。見送りにいった時、船上で「後から来てくれよな」と言われ「うん」と答えたのが、私にとってブラジルとの始まりだった。1955年(昭30)10月に電業社は東芝に吸収合併されることになったので、私は9月一杯で退社、翌年3月に、やはり南アフリカ回りのテーゲルベルグ号で、稲田より1年8ヵ月遅れて1956年(昭31)5月にブラジルにやってきた。
稲田は南米銀行、移住振興株式会社(現JICA)を経て、1958年からパシフィック・コンサルタント・ド・ブラジル(以下PCDBと略す)に移った。私は三井物産(当時は第一物産)の機械課で働いたが、PCDBの仕事が忙しくなり、誘われて1959年4月からPCDBに移り、稲田と一緒に仕事をすることとなった。
<エリエゼルとの出会い>
ウジミナスは1958年5月に建設地はイパチンガと決定し、8月にはクビチェック大統領臨席のもとに定礎式を行って、建設に向けて動き始めた。PCDBも、ビトリア港の石炭埠頭設計業務や、ビトリア・ミナス鉄道の輸送能力などの調査業務を受注して作業を開始した。これらの仕事をするために、リオドセ社の所有するビトリア・ミナス鉄道から資料の提供を受ける必要があり、当時路線部長だったエリエゼル・バチスタとの接触が始まった。
彼は1959年から鉄道局長となった。そのころのビトリアは、カナアンというホテルぐらいしかない田舎町で、エリエゼルが町外れの丘の上にある社宅からステーション・ワゴンで迎えにきてくれたこともあった。彼の家に集まる鉄道の部下には、後年リオドセ社の役員になったリニャーレスや、連邦鉄道の総裁になったイメリオなど多士済々であり、彼らとウイスキーを飲みながら意見を交換し、理解しあえる友人になったことが、その後の仕事に非常に役に立ったことはいうまでもない。エスピリト・サント州政府からPCDBが水田4千ヘクタール造成を目的とするオロボ用水計画の設計を受注したときもエリエゼルの強力な支援を受けた。
1961年1月末にジャニオが大統領に就任すると、エリエゼルはリオドセ社の社長に抜擢された。同年5月5日、稲田はエリエゼルに呼ばれた。そのときのエリエゼルの話では、「リオドセ社は従来岩井産業と対日鉄鉱石輸出を行ってきたが、対日輸出を飛躍的に増大させるために、岩井以外の各商社とも取引きしたい意向である。一方、旧社長時代の営業担当者は、岩井産業は日本大使の強い推薦があるとの口実で、他社との取引きは不可能なる旨主張している」とのことで、社長になったものの、エリエゼルは技術出身であるため、営業関係の内情が把握できずに困っていた模様だった。
また「リオドセ社としては、対日年間5百万トン輸出を考えている。日伯間の鉄鉱石取引きの唯一の障害は海上輸送運賃で、これを下げるためには大型鉱石専用船の採用が不可欠であり、将来10万トン、差当たり6−7万トンの鉱石船が接岸できる埠頭をつくる意向であるが、これは特に日本向けを意図したもので、かつブラジルの港湾技術レベルも考慮して、日本から鉄鉱石買付けグループを代表する技術調査団の派遣を希望している。これらを総合して、日本製鉄業界の内情報告と、5百万トン輸出促進の側面援助を依頼したい」とのことだった。
リオドセ社は、特定のグループとの交渉ではなく、広く日本の製鉄業界とのコンタクトを希望しているので、安東(義良・大正11年東大法学部)大使と会見して正式に申入れを行うことにした。
安東大使は、ウジミナスを推進したことで有名であり、近く任期も終り帰国する予定だったが、対日鉄鉱石輸出は大いに有望、かつ日伯経済交流拡大の上からも重要な問題であるから、喜んで会見するとのことだった。5月9日(火)にエリエゼルは大使館を訪問、大使と面会した。同席者は大使、エリエゼル、古河一等書記官(通産省より出向)および稲田だった。
「リオドセ社はジャニオ大統領の全面的な支援の下に、5年後、2千万トンを目標として、計画立案中である。大統領も自分と同じく、対日輸出を非常に重要視している。このためビトリア港を改修し、大型鉱石専用船受入れの準備を行いたい。採鉱および鉄道輸送は2千万トンまで問題ない。港湾は対日輸出を主目的として改修するのであり、ブラジルの技術水準は低いから、日本より調査団を派遣してもらうことが好都合と考える。従来リオドセ社は非常に消極的で長期契約も行わなかったが、自分はこれも断行する」とのエリエゼル発言に対し、安東大使は、話は極めて明快かつ有望と考え、早急に処置をとる旨約束して会見を終った。
この年8月25日にジャニオ大統領が突然辞任するとは、神ならぬ身の知るよしもなかったが、幸いこの件がリオドセ社の対日輸出の仕事に、大きく影響することはなかった。
大使とエリエゼル会見の経緯をパシフィック・コンサルタンツ本社に連絡し、東京の事情を調べてもらった。その回答電報を受取り、われわれはびっくりして、開いた口が塞がらなかった。内容は次のようなものだった。
「安東大使の公電来たが、政府は国際市場およびウジミナス財政行詰まりの点より、当分の間ブラジルよりの鉄鉱石輸入の可能性を否定し、日本を代表する調査団の派遣をしないことに決定し、訓電した。当分の間PCDBはこの問題をペンディングせよ」
長年ブラジルで仕事をしていると、現地と日本の判断のズレを経験することは多いが、この電報ほど食い違った例は珍しい。リオドセ社が要請しているのは、民間企業である高炉メーカーを代表する調査団で、政府が断るいわれはない。大使館に連絡して、古河書記官に問い合わせたら、そのような訓電は入っていないという。相談の結果、本件に関しては稲田が自費ででも訪日して、本社とは関係なく動くことにした。
<稲田の訪日>
36年も前のことで、当時ゼロックスのように便利な複写機はなく、コピーを取るときは、フォト・コピーという方式だった。まずネガをつくり、これを焼き付けてポジのコピーをつくるのである。
私の手元に、当時エリエゼルが日本の高炉メーカーの社長に出した英文の手紙のネガが残っている。日付は1961年5月25日であり、宛先は10社の社長宛てで、すべて同文である。高炉メーカーでなく、あと1枚、日鉄鉱業株式会社の森田(恵三郎)社長宛てというのがあり、エリエゼルが11社ということがあるのは、これを含めてかもしれない。
高炉10社というのは、私の記憶では八幡製鉄、富士製鉄、日本鋼管、川崎製鉄、住友金属、神戸製鋼、日新製鋼、中山製鋼、尼崎製鉄、大阪製鉄だったと思うが定かではない。日本側との会議の席上では高炉9社と聞いたような気もする。さらにエリエゼルからの稲田の紹介状では、本来[To
whom it may concern] とするところだろうが、[Letter of introduction]
となっている。
本社からの「ペンディングにせよ」という指示を無視して訪日するのだから、日本で本社のバックアップを期待することもできず、どのような方法で製鉄業界と連絡をとればいいのだろうかと考えた。その一つに私の伯父が日鉄鉱業の社長をしていたので、その線で行こうということになり、伯父あてに私が稲田の紹介状をかいた。
二宮氏は東大の人脈について述べていて、稲田の交友関係に今井敬新日鉄社長(その後経団連会長)のことも書いているが、残念ながら稲田に言わせると「今井は当時廊下トンビだった」とのこと、いかに優秀でも入社10年の富士鉄の係長では、エリエゼルの依頼を受けて立つには無理である。今井は昭和27年の法学部、稲田は昭和29年の理学部だが、面白いことに彼らは大森の入新井小学校の同級生だった。今井は都立一中から旧制一高、旧制東大とストレートに進み、稲田は開成中学5年卒、一浪で旧制一高、新制東大で1年留年となっている。
稲田に言わせると「今井には学校の成績ではどうしてもかなわなかったが、海軍だけは俺が先輩だ」と威張っていた。これは昭和20年4月、稲田は中学3年から海軍兵学校の本校に入校したので77期、今井は海軍兵学校予科に入ったので78期、したがって稲田が1期先輩ということになる。中学3年から海兵の本校に入るのは並み大抵のことではない。ちなみに私も78期だから今井とは同期の桜ということになる。
私の伯父は大正9年法学部卒、商工省から日鉄に移り、戦時中役員となっていたが、昭和21年6月からは、石炭や鉄鉱石など日鉄の原料部門を担当する日鉄鉱業の社長を務めていた。同社は釜石や香港でも鉄鉱石を掘っていたので、まんざら鉄鉱石と関係ないわけではなかった。八幡製鉄の小島(新一)社長は大正7年、富士製鉄の永野(重雄)社長は大正13年といずれも法学部出身、以前伯父にもらった手紙には、購買の担当者レベルでは年の差があり過ぎて、自分から話してもあまり効果はないと思うとのことだったが、その辺はなにか知恵を貸してもらえるだろうと、とにかく頼み込むことにした。
そのような経緯で、高炉メーカーでない日鉄鉱業宛てのエリエゼルの手紙が1枚加わることになったわけだ。その手紙の要点を下記する。
「
リオ・デ・ジャネイロ、1961年5月25日
拝啓
弊社は1960年に420万トンの鉄鉱石を輸出し、そのうち38万3474トンは日本向けとなっています。現在年間6百万トンを生産、輸出すべく、拡張計画を実施中であり、5年以内に2千万トンに増量することを目指しています。日本に対しては将来大量輸出をしたいと考えており、これに関し、少なくとも6万トンクラスの大型船で輸送することが、日本の鉄鋼業界にとっても、もっとも重要だとうかがいました。
ビトリアにおけるわれわれの港で、このクラスの大型船を受け入れるための改善について、十分な研究を行うことは、対日輸出を拡大するのに極めて有用であると思います。また、これらの研究の結果が実行された場合、日本側にとっては運賃の低下というメリットをもたらすでしょう。このような条件のもとで、イタビラ鉄鉱石の輸出増大に貢献する港湾の改善に関し、すぐれたアイデアを提供することで、われわれを支援して下さる技術者の派遣を歓迎する意図を貴方にお伝えすることは、お互いの関心事であると存じます。本件についての貴方からのいかなるコメントも心から感謝するものであります。
敬具
エリエゼル・バチスタ・ダ・シルバ − リオドセ社 社長」
また、稲田が携行したエリエゼルの紹介状は次のとおり。
「紹介状
本状の持参人、稲田耕一氏は過去2年にわたり、当社と関係をもってきました。
当社の現状および発展可能性についての同氏の知識は、現在実施中であるいくつかの大規模な改善の結果としての当社鉄鉱石対日輸出の大幅な増量につき、明確な情報を提供できるものであります。かかる可能性検討の会議において、稲田氏に対し関心をもっていただければ、心から感謝いたします。
リオ・デ・ジャネイロ、1961年5月25日
エリエゼル・バチスタ・ダ・シルバ − リオドセ社 社長」
<海外製鉄原料委員会>
現在はどうなっているか知らないが、当時日本の鉄鋼業界は海外製鉄原料委員会を通じて、海外からの鉄鉱石や原料炭の共同購入をしていたらしく、その事務局長が渡辺(誠)さんだった。この人は昭和2年東大工学部冶金工学科を卒業、商工省に入り、戦後通産省で石炭局長を経て退官され、原料委員会に迎えられたと聞いている。伯父の死後、日鉄鉱業がその追悼録を出した際、当時、海外鉱物資源開発株式会社の社長の渡辺さんも追悼文を書いておられるが、商工省の先輩、後輩ということもあり伯父とは親しかったらしい。
稲田は6月に日本について、ただちに伯父を訪ねて相談した結果、渡辺さんを紹介され、結局、リオドセ社からの申入れは原料委員会で取上げることとなり、それ以降のリオドセ社との交渉はすべて同委員会経由となった。
日本の製鉄業界すべてとコンタクトしたいというエリエゼルの希望は、このようにして叶えられたことになる。
<本側調査団の来伯>
リオドセ社の要望にこたえて、10月に日本側が製鉄の調査団をブラジルに送る旨、原料委員会を通じて連絡してきた。
まず、港湾と鉄道の調査団が先着して調査を行い、その結果を渡辺さんを団長とする本隊のネゴ・ミッションに報告し、それらをふまえてネゴ・ミッションがリオドセ社と、数量、価格などの長期契約条件を詰めることとなっていた。八幡製鉄購買部の我妻(貞一・11年京大法学部)部長、富士製鉄原料部の田部(三郎・14年法学部、後に新日鉄副社長)部長達が本隊のメンバーだった。我妻さんは、私の伯父が旧日鉄の人事課長時代に採用されたそうで、移動や会議の合間に昔話をしてくれたことを覚えている。
鉄道の調査は、パシフィック・コンサルタンツに任され、河野(康雄・8年工学部土木)常務と私が調査員としてレポートをまとめたが、エリエゼルも話していたように輸送能力に問題はなかった。やはり難航したのは港湾だった。港湾調査団の団長は、戦前内務省で横浜港をはじめ多くの港湾を手掛け、昭和20年に退官、日本港湾コンサルタント(株)の社長をしている鮫島茂博士(大正6年工学部土木)で、団員に各製鉄の港湾土木の技術者がついていた。
ビトリア港は約8キロメートルの水路を通って、アタライア、パウル埠頭で鉄鉱石の積込みを行っていた。リオドセ社の拡張案は水路の幅を広げたり、岩を除去して水深を大きくしたりするいくつかの案、多分4通りだったと思う、を準備していた。これを内港案という。この論拠となったのは、当時オア・プリンスという4万5千トンの専用船が鉱石を満杯にして出ていったということだったが、素人の私から見ても、狭い水路と十分な船回し場もないビトリア港が、はたして10万トンの専用船を受入れられるのか多少疑問だった。
ところが来伯した日本の港湾ミッションは内港案など見向きもせず、最初から外海に面したところに新港を建設しようとする外港案以外は検討の対象にもしなかった。日本からのミッションが着くまで、外港案など考えたこともなかったブラジル側にとってはショックだったと思う。ところがここで問題が起こった。日本側は出発前に海図で新港案を検討してきたが、その場所はビトリア港に入る水路の南側にあるコスタ海岸であり、その沖合にある溶岩状の岩礁をベースとして埋立てをおこない新港をつくろうとするものである。
これにはブラジル側が反対した。海図では陸上の状況はわからないが、この海岸沿いの土地は別荘地としてほとんど分譲されており、以前はカジノも開いていたし、州知事の夏の公邸もあった。その前を鉄鉱石の積出港として埋立てようというのであるから、土地収用の困難性などを考えると、リオドセ社としては受入れられないのも当然であった。
10月末に調査団のグループはリオのエンジニア協会のクラブを会場として、リオドセ社と最終打合せを行った。ネゴの方はだいぶ進んでいたが、港が決まらなければ意味がない。この調子では、当面棚上げになるのかと心配していたところに、リオドセ社から、「ビトリアの飛行場の裏にカンブリという海岸がある。その北側先端をポンタ・デ・ツバロン(ツバロン岬)と称し、この一帯は人家もなく、地主の数も少なく、土地の収用も容易である。ここが港の候補地にならないだろうか」との申入れがあった。
早速、海図と地図でおおまかな状況をつかみ、翌朝ビトリアに飛んだ。今のようにジェット機などなくダグラスのDC−3が就航していた時代である。空港からジープでカンブリ海岸を経てツバロン岬まで視察し、町中にあるリオドセ社のカウエというクラブハウスに集まった。ここで海図に鮫島博士が防波堤やピアのレイアウトの線を書き込んだのが、現在のツバロン港である。当然のことながら、多少の差はあるのだろうが、私にとっては、基本的な構想はまったく同じものだと信じている。
余談だが、当時鮫島博士に教わったことがある。博士によると、「リオはポン・デ・アスーカルやコルコバードのような切り立った岩山があるだろう。ビトリアにも似たような岩山がある。こういう地形のところは、良港になる。いわゆる、山高ければ谷深しだよ」とのことだったが、この言葉はツバロン港で証明された。
もちろん、鉱石船を受け入れるだけの水深が取れなければ港にはならない。数字もうろ覚えだが、10万トンの鉱石専用船の喫水が14.5メートル、港の必要な水深が16メートルというようなことではなかったかと思う。港湾ミッションはリオドセ社に対し、直ちに海底のボーリングを実施することを勧めて帰国した。
1961年11月から12月にかけて、エリエゼルはじめリオドセ社側一同が、ツバロンの水深が取れますようにと、祈るような気持ちで過ごしたことは疑う余地はない。1962年1月には、ツバロンのピアの建設予定地、船回し場、水路などの水深は浚渫によって、十分に10万トンクラスの鉱石専用船を受入れられることが判明した。
<稲田、森田の訪日>
海外製鉄原料委員会の調査団が日本に帰ってしばらくして、多分11月中旬だったと思うが、稲田は再びエリエゼルに頼まれて訪日した。その時の紹介状は下記。
「
リオ・デ・ジャネイロ、1961年11月9日
紹介状(To whom it
may concern)
この紹介状持参人、稲田耕一氏は、1961年10月リオ・デ・ジャネイロで行われたリオドセ社と日本のブラジル鉄鉱石調査団との会議に参加したものです。同氏は当社の拡張計画と熟知し、したがって、日本のミルにとって興味ある情報および技術的データを提供することができます。
稲田氏に対するいかなるご支援も心から感謝します。
リオドセ社 社長
エリエゼル・バチスタ(署名)」
紹介状の内容からも明らかなように、稲田のミッションは、まず10月に帰国した日本側調査団の港湾建設予定地についての日本側検討状況、および、1962年以降長期契約発効に至るまでの期間における暫定購入に対する日本側意向を打診してエリエゼルに報告すること、また、リオドセ社の港湾建設計画検討進捗状況を日本側に説明すること、さらに、翌年予定されているエリエゼル社長以下リオドセ社同行メンバーの訪日受入れに関する調整などだった。当初エリエゼルは1月訪日を予定していたが、結局4月になった。
12月の時点でリオドセ社は内港案は白紙にもどし、外港案一本でいく方針を決定している。ツバロン地区でのボーリングはクーニャ・メナルディ社と契約し11月20日以降作業を開始している。
1962年2月はじめ、エリエゼルの補佐をつとめていたライムンド・マスカレーニャス(後にリオドセ社社長、自動車事故で死亡)とマルコス・ビアーナ(後に開発銀行総裁)の二人が訪日し、ボーリングの結果建設可能との結論がでたツバロン港の説明を、原料委員会に対し行うこととなった。私も同行することになり、3人でヨーロッパ経由で訪日した。
現在なら、ノンストップで直行できるパリー東京間をパン・アメリカン航空のボーイング707で、途中ローマ・イスタンブール・アンカラ・テヘラン・ニューデリー・バンコック・香港と各駅停車で2月7日に羽田に到着、パレス・ホテルに投宿。翌日から近くの大手町ビルにある原料委員会で、ツバロン港のプレゼンテーションを行った。その場には稲田と私のほかに、岩井産業の代理店であるリオの蜂谷商会のパウロ蜂谷さんも同席していた。
外港案で10万トンの鉱石専用船が入港できれば、輸送コストは低減できるので、日本側としてはツバロン港を歓迎してくれた。これが現在世界一の鉄鉱石輸出港となったツバロン港誕生の経緯である。マスカレーニャスとマルコスは帰ったが、稲田と私はそのまま東京にとどまり、エリエゼルの訪日を待つことにした。
<長期契約調印>
1962年4月、エリエゼルがオスカール・デ・オリベイラ副社長夫妻、ランジェル営業担当重役、ロニー弁護士と連れ立って来日した。八幡製鉄本社を訪れたとき、小島社長から「青年社長の来日をお待ちしていました」と言われたが、エリエゼルは当時37歳だった。調印の日付が4月だったことは私も覚えているが、正確に何日だったかすぐ忘れてしまい、いつも稲田に聞いていた。さすがに彼はよく覚えていたが、今は聞く相手がいない。
契約は、日本側は高炉各社の社長(全員ではなかったと思う)、リオドセ社はエリエゼルが調印した。当日の写真が残っているが、稲田、今井、それにわれわれが一緒に仕事をした木下産商の競争相手で、好敵手だった岩井産業の櫛引氏も写っている。彼は惜しくもその後ビトリアから仕事の帰途、飛行機がリオ湾に墜落した事故で亡くなった。
リオドセ社との契約以前に、日本の製鉄業界はインドと5年契約を結んだことがあったそうだが、リオドセ社との15年、5千万トンの契約は未曾有といわれた。1966年から始まり、1980年に終わる契約で、漸増することになっており、最終の2年は年間450万トンだった。エリエゼルがさかんに年500万トンと言っていたが、その希望はほぼ達成された。
この契約は日本の製鉄業界の粗鋼生産年間5千万トンをベースにしたものであり、1972年には1億2千万トンの実績となっているので、リオドセ社からの供給は当然契約を上回ったのだろうと思う。ブラジルからアジア向けの鉄鉱石輸出は年間3千万トンと聞いたこともあるし、ツバロン港も拡張計画で25万トンの専用船が入るようになったと稲田が話していた。契約当時、鉄鉱石の輸出価格はFOBがトン当たり8ドル、海上運賃が8ドルでC&Fが16ドル、5千万トンで総額8億ドルだった。
調印式が終わって数日後、稲田と一緒に、原料委員会の渡辺さんから鰻屋に招待され、「いろいろあったが、ご苦労さまでした」とお礼をいわれた。5月の半ばに稲田と二人でブラジルに帰ってきたが、コンゴーニャス空港に着いたとき、慌ただしかった一年を振り返って、心の底からほっとしたことは忘れられない。
<あとがき>
ブラジルに戻ってから、木下産商の木下(茂)社長とビトリアの北、セーラ郡に土地を買って農場を始めた。しかし、それも1965年に木下産商が三井物産に吸収合併されてお仕舞になり、コンサルタントとして働いていたわれわれは、次の仕事を見つけなければならなかった。
稲田は伊藤忠商事に入り、まもなくリオ支店長になったが、その間、日本が戦後初めて開発した双発機YS−11(ブラジルではサムライと呼ばれた)の売り込みや、セニブラ(日伯紙パルプ)のスタートを手掛けている。大学同期の仲間も、特に官庁に入った連中はそろそろ課長クラスで、当時通産省の紙パルプ課長をしていた宮本(二郎・28年法学部)には、稲田もいろいろ相談しているようだった。
やがて伊藤忠を辞めて独立したが、当時ツバロン製鉄の進出にも関わっていた。視察にみえた川崎製鉄の藤本(一郎・昭和7年工学部冶金)社長の碁の相手もやっていたようだ。早世されたが、同社の原料担当だった加藤(真三郎・27年工学部鉱山)さんも忘れられない一人である。ブラジル・日本・イタリア三国合弁のツバロン製鉄が操業したのち、ヨット部仲間の山田(孝雄・28年工学部冶金)が技術担当役員としてビトリアに赴任、数年間滞在した。
最近のヒットは旧制一高からの友人である林(章・29年法学部)と協力して、長年努力してきたHSST(磁気浮上交通システム)の売込みが実を結んで、リオ市からコンセッションを取付けたことだ。しかしその完成を見ることなく亡くなったのは悲しみにたえない。
私は1965年4月から東芝に入った。IHIの社長として、本件とは専用船や荷役設備の関係もあり、ミルやリオドセ社のカクテルパーティーで度々お会いし、ブラジルを話題にいろいろ話しをした土光さんが、その年の6月に東芝の社長に就任された。私の在勤中も、1974年の退社後も目をかけていただいたが、これも鉄鉱石の仕事に関わったおかげだと思っている。
1966年4月リオ出張の機内で、新聞が4月1日にツバロン港に日本からの第一船を迎えて、完成式を行ったというニュースを伝えていた。式を取仕切ったのはオスカール・デ・オリベイラ社長で、エリエゼルは1964年の革命で実権を握った軍事政権に忌避されて、リオドセ社を去っていた。革命前に、左翼系のジャンゴ政権で鉱山動力大臣を務めたこともその一因だったかも知れない。もちろん、エリエゼル抜きのリオドセ社は考えられず、1979年から1986年まで再び社長に帰り咲いて、カラジャス計画や関連事業の多角化に手腕を振るったのは周知の事実である。
上記の新聞記事で、ツバロン港完成の記念切手が発売されることを知って、早速郵便局で切手シートをもとめた。バックに地球儀の緯度、経度を展開したような構図があるのは、ブラジルと日本を結ぶことを意味しているのだろう。シップ・ローダーはIHI製(積込能力は1時間6千トン)であることは間違いないし、右側の船も日本船のはずだ。私にとっては若き日の思い出として、懐かしい記念切手であり、今はまた、亡くなった稲田をしのぶよすがでもある。
以上
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