<出稼ぎ高齢者の見た日本>
 

ブラジルが故郷―懐かしいコロニア人・語 (最終回)
   
11月2日(金)付けニッケイ新聞より転載


    
二度のデカセギ経験をもち、モジダスクルゼス・ベルチオガ二〇`に住む飯出七雄さん(六八、群馬県出身)は、ブラジルへ戻ってきた時の気持ちをこう語る。

「こちらに根を張ってるから、いまさら生まれ故郷の群馬行ったって、まわり近所知らない人ばっかりでしょ。そんなとこ入るより、三十年も四十年も一緒にやってきた長い付き合いのある、このコロニアの方がいいですよ。今の日本には見られない、昔ながらの日本人同士のぬくもりがあるからね」

飯出さんは「日本だと同じアパート住んでても、付き合いのない、情の薄い関係が当たり前でしょ。ここの人間対人間の付き合いの味は、表現できないよ」と強調する。
それは同じ植民地で、長い年月を過ごした人としか共有できない独特の"味"だ。日本が変化したように、移民もまた生活経験を重ねる中で独自の文化や考え方を、知らず知らずのうちに育んできた。移住経験の密度が高ければ高いほど、同じものを在日日本人と味わうことはできない。  その密度を裏から支える大事な道具が、コロニア語だ。
   
第一回で紹介した川畠浜子さんが付き添い婦をしていた時、「一日の仕事を終えてクタクタになって、みんな(デカセギ同士)でお風呂入るでしょ。そしたら自然とコロニア語になるの。もちろん普段の仕事は、ちゃんとした日本語だけど、この時だけはやっぱりコロニア語がいいのね」と日本の日本語と比べる。

ところが、それを見て秋田や青森から来ている出稼ぎ付き添い婦たちは「"ブラジル語"しゃべるな!」と怒ってくる。浜子さんは「一日の疲れを洗い落とす時に"くにの言葉"使ってどこが悪いのよ。あんたたちだってズーズー弁しゃべってるじゃない。あたしたちには何にも分かんないわよ。それと何が違うのよ!」と怒鳴りかえしたという。

ブラジルの日本語は、移民体験やコロニア生活を表現するために特化した言葉になっている。青森のおばあちゃんが青森弁でなければ、彼女の思う故郷のぬくもりや自然の細やかな移り変わりを表現できないように、在伯日本人はコロニア語でなければ、微妙な感情表現や言い回しをしづらい。

デカセギ経験によって、植民地の雰囲気と同時に、コロニア語も見直され始めている。
「祖国に未練があるんだったら、決別するために行ってきたらいい」と友人から忠告されてデカセギに行った人もいる。移住以来、三十二年間日本を訪れたことがなかった高田暁真さん(六五、福井県出身)は「懐かしい祖国がどう変わったか、一回見てみたい」と友人に相談したら、そうアドバイスされ決心した。

高田さんが九七年に栃木県の塩原温泉でホテルの雑役夫をしていた時、日系の同僚十五人のまとめ役をさせられ一年間で胃潰瘍になった。冬場の客が少ない時期は数人分の仕事しかなく、残りは寮で待機させられ、ひどい時には月七万円にしかならなかった。不満のたまる同僚とホテル側との間に挟まり、医者に「あと一ヵ月我慢したら胃に穴が開くよ」といわれ、急きょ帰伯した。
 
「一回行ってみたら、それまではいつもあった"懐かしい"という気持ちが、不思議と薄れた。今は、彼は良いことを言ってくれたと思う」と淡々と述懐する。「便利なのは日本だけど、住むならこっちのがいいかな」。 "故郷"の懐かしさの大部分は、実は人間関係にあるのかもしれない。"祖国"日本へ行ってみたら、逆にブラジルが懐かしく感じる。長く暮らした人ほど、その思いは強くなる。まして植民地で助け合いながら、苦労を共にした仲間がいるならば、その思いはひとしおだろう。

ブラジルでは「ジャポーネス」と言われてきた二世や三世は、日本で「ブラジル人」と呼ばれるようになって、その自覚を強くしたという。一世もまた、日本で「在伯日本人」と意識するようになった。

人生の半分以上を過ごしてきたブラジルは、気が付いたら、"祖国"以上に懐かしい、新しい"故郷"になっていたようだ。(深沢正雪記者)


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