<出稼ぎ高齢者の見た日本>
 

食い違う常識=| 買い物できない「浦島太郎」 (2)

10月18日(木)付けニッケイ新聞より転載


一世がデカセギする時、もちろん金銭的理由は大きい。でも、そればかりではない。「自分の目で日本を知りたい、体験したい」という強い欲求に駆られて出かける人も、相当の割合で混じっている。もしくは、バランスはそれぞれでも、両方を同時に持っている。例えば、栃木県鬼怒川温泉のホテルで一年間働いた板井清(七八・大分県出身)さんの例だ。
   
彼は戦前、朝鮮半島の全羅北道に生まれ育った。父親の決断により、一九三七年八月に一週間ほど父親の郷里・大分県に滞在した後、十四歳で家族と共に移住した。

親から戦前式教育を受け「死ぬなら日本で!」とたたき込まれた。一週間だけの実体験は、日本をイメージする時の重要なよりどころになったに違いない。日本経験は短くても、一世であり、親からたたき込まれた「日本人」意識を人一倍持っているから、「日本を知ること」は「自分を知る」ことにもつながる重要な行為だ。その欲求は、デカセギ以前の彼の生涯を通しての継続的かつ根本的なものであっただろう。
  
「新宿駅の人ごみにはびっくりしたな。まるでボイアーダ(牛の群れ)が迫ってくるみたいだった」
   
一九八七年十二月、自分の中の"祖国"を追体験し再確認する旅に、板井さんは出かけた。日本は「進んだ国、ここでは見られない機械がある」という強い印象を受けた。が、同時になぜか「どうも職場の日本人とは、こちらでいう"付き合い"らしいつきあいができなかった」と残念がる。
   
植民地で日本語学校に通った板井さんは、別に日本語の読み書きに不自由したわけではない。「言葉には問題ないんだ。自動販売機の字が読めないわけじゃない。でも、実際には駅で切符の買い方一つ分からないんだ」と恥ずかしがる。また、職場には自分を入れて七人のブラジルからのデカセギがおり、自分たち同士の会話は自然と「コロニア語」になり、同僚の在日日本人から煙たがられたという。つまり、"祖国"である日本の生活のどこかに、違和感を感じていた。
  
在日日本人は日本国内での生活体験の積み重ねや、テレビ・新聞などから絶え間なく流される情報から、お互いに説明するまでもない了解事項である"常識"を自然に形成している。日本語を媒介とした"空気"や"雰囲気"と言ってもいいかもしれない。相手に均一性を求めがちな在日日本人の特徴でもある。 言外に「同じ空気の共有」を求められても、ないものはないし、知らないものは知らない。 これは日本国内である程度の時間を過ごさないと身につかないものであり、ブラジルのメトロとは違う「切符の買い方」や、「コンビニエンス・ストアーの使い方」などの生活情報も当然含まれる。
   
在日日本人は、相手が日本人の顔をして日本語を不自由なくしゃべるなら、当然そういう情報も相手が知っていると考える。日本語をしゃべり、なおかつ、外国文化を身につけた日本人が目の前にいることを、事前に想定していない。この"常識"は新参者が敢えて学習しないと、すぐには身につかない。いわば、知らない間は「浦島太郎」的状態だ。それが意識しないでもできるようになった時、在日日本人に仲間入りする。 逆に移民社会で長い間過ごした人は、在伯日本人としての"常識"が自然と形成されている。その一端がコロニア語であり、親密な会話を成り立たせるためには、なくてはならない道具だ。
  
だから、板井さんたちのようにデカセギ同士ではコロニア語を使うし、あえて「日本の日本語」を使うとどこかギクシャクしたものを感じる。相手が「言わなくてもわかる」人であればあるほど、安心してくつろげるし、余計な気を使わない。それが、空気であり雰囲気だろう。
その根本が違うのに、"祖国"の人だから分かり合えるはずだろうと思っても、裏切られる。お互いが違う文化・文脈の時間と場所で生きてきたからだ。だから、板井さんは「"付き合い"らしい付き合い」(=移民同士のようなつきあい)ができなかったのかもしれない。
   
以前、彼が旅行で訪日した時、親戚はとてもよくしてくれたという。でも、今回三回ほど手紙を書いたが、梨の礫(つぶて)だった。 「もし逆の立場で、日本の親戚がブラジルに来たら、デカセギだろうが何だろうが、一カ月でも好きなだけ泊まっていってもらうんだがな」と悔しがる。
  
親から「死ぬなら日本で」と教え込まれた。でも、今回デカセギしてみて「いざ生活してみると、"やっぱりブラジルで死にたい"と思うようになった」と告白する。 生涯を通じた強い期待を抱いていたからこそ、予期しないすれ違いや食い違いに、さぞや落胆も深かったに違いない。 (深沢正雪記者)

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