<出稼ぎ高齢者の見た日本>
     

日本の養老院に未練 ― 孤独でも楽しい老後を(6)

10月24日(水)付けニッケイ新聞より転載 


  
聖市在住のBさん(七三)がデカセギを始めたきっかけは、夫婦関係のもつれだった。戦後移住して以来夫婦で洗濯屋を営んできたが、長い間よりそった夫と八二年に「面白くなくなって別れた」という。「ポルトガル語がよくわからないから、ブラジルでは働けない」ので、翌年日本に行くことにした。

それからの十六年間というもの、二年ごとに永住権更新に戻る以外は、日本で働き続けた。その大半は付き添い婦としてだ。 「働くのを辞めようと思ったことは、何べんもある。今か今かと病状が悪化する重症患者を見ていると、眠れないのよ。それが一番つらいの。疲れがたまって、立ったまま寝たり、目を開いたまま寝たりするのよ。体がグラッとして、ハッと気付くの」 そんな時、「付き添い婦はもうたくさんだ。朝になったら、会(家政婦紹介所)に連絡して、辞めさせてもらおうかな」と決心する。でも、翌朝起きると「もうちょっとだけ続けてみようかな」と思い直す。その繰り返しだという。

点滴を無意識に引き抜こうとする患者の手を、昼夜問わず二日も三日も押さえつけ続けたこともある。「よっぽど我慢強い人じゃないと勤まらないわね」と回想する。 "寝る"といっても、ふだん患者のベッドの下にしまってある、幅の狭い簡易ベッドだ。患者のベッドの下に体半分を潜り込ませながら横になる。だから「寝返りうちたくてもすき間がない」状態だ。いつ患者の容体が急変して看護婦を呼ぶ必要が生じるか分からないから、前掛けを外して、そのまま二時間ほどむさぼるように仮眠する。
  
でも、一人受け持って月三十三万円、二人で四十五万円、三人なら七十五万円になったこともある。洗濯屋をしていたころの苦労と収入の釣り合いを考えれば、苦労した分だけ確実に見返りがある。これは、やりがいにつながった。また、一人で暮らす老後の不安を考えれば、いくらお金があっても十分ということはない。デカセギ以前は郷里の親、姉妹ともやりとりがあったし、何回か訪ねたこともある。でも、デカセギ以後、連絡はぱったり途絶えた。「連絡取らなかったから、私がずっとブラジルにいると、(日本の)家族は思っていたと思う」という。
  
顔を出しづらい理由には、「ブラジルへは、みんなの反対を押し切ってきたから、今さら"日本に帰って働いてます"とは言いたくなかった」という事情がある。さらには「別れた夫が同郷人で、兄弟が住んでいる」ということもある。故郷には帰れない。かといって、ブラジルの家庭も崩壊した。二つの国のはざ間で、孤独な心は揺れ動く。 付き添い婦をしながら「そのまま日本に住もうかなと思ったこともある」という。よさそうな養老院を調べ、見学にも行った。「こっちよりいいもんね、サービスが。病院の医者や看護もいい。ここなら住んでもいいかな、と思えるところもあったわ」と述懐する。

偶然出会った、聖市ビラカロン区のかつての知り合いにも影響を受けた。彼女は感染の危険のある病原菌保菌者専用病室を担当し、患者一人につき月四十万円以上稼ぎ、その資金で日本に家を買って住んでいた。 ブラジルへ帰ってきた理由を問うと、「子供が"帰ってこい"って言うのよ」とうれしそうに答える。家族のきずなは、まんざらではなさそうだ。かといって、満足しきっているようにも見えない。

「もう日本には行かないんですか?」
「…本当は、今でも日本の養老院の方が、と思うこともあるのよ」と素直に認める。

ポルトガル語に自信がないから、このまま一人でブラジルに住むのも不安。日本で見てきた養老院は設備も充実していて、一人でも、それなりに楽しい老後を暮らせるかもしれない。未練は尽きない。戦後移民のデカセギは、まだまだ現在進行中だ。

みなそれぞれに家庭の事情もあれば、自分への誇りもある。誰も好き好んで、故郷の家族に恥をさらしたくない。親、姉妹、兄弟、親戚…。故郷にいい思い出や大切にしたい人がいればいるほど、皮肉なことに、分かち合えないものも出てくる。いつまでもそのままかもしれないし、そうでないかもしれない。

取り巻く状況は移り変わっても、変わらない人間関係もあるかもしれない。変わらない景色もあるだろう。故郷の友が今の自分をどう見るか、会ってみなければ分からないが、不安は尽きない。

かくも故郷との距離は、遠くて近い。(深沢正雪記者)

 

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