<選挙速報>

ルーラとセーラの決選投票に持ち込まれる大統領選

高 木 登  -  2002年10月8日


10月7日のフォーリャデサンパウロ紙の午後3時時点のホームページは、昨日(6日)行われた大統領選の第1回目の投票で、PT党(労働党)のルーラ候補が得票数39,230,429票(有効票の46.44%)、政府与党のPSDB党のセーラ候補が19,604,813票(23.21%)、PSB党のガロチーニョ候補が15,088,503票(17.86%)で、PPS党のシーロ・ゴメスが10,117,473票(11.98%)を獲得したことを報道している。そのため予想されていたがルーラ候補は有効票の過半数(51%)で第1回目の投票では勝利できず、選挙法規定により、1位のルーラと2位のセーラが10月27日に行われる2回目の決選投票で争うこことになった。
    
上記の得票数は投票総数の99%の開票結果であり、ほぼ間違いない結果であることにより、政府派候補のセーラにも勝利のチャンスができたことを意味している。しかしセーラが勝利を収めるには、敗北したガロチーニョとシーロに投票した選挙民の票を獲得しなければならないが、ガロチーニョはすでに全面的にルーラを支持することを表明しており、4位で落選したシーロ・ゴメスは敗北の原因はセーラのテレビ宣伝での同候補攻撃であるとして、通りすがりに会っても挨拶もしないほどの間柄である。したがって圧倒的に有利なルーラの決選投票の勝利が予想されており、セーラは2週間足らずの間によほど有効な手段を考えなければ、苦戦を強いられることになる。
     
しかし反政府派ではあるが、実質的には社会主義者ではない落選した2人の候補の選挙民は、現政権の継続には反対であるが、根っからの社会主義者のルーラには投票しないあろうとの意見の人が多い。事実シーロ・ゴメスに投票した人に限れば、筆者の周囲ではほとんどの人がセーラに投票すると言っている。したがって今回の決選投票は面白い展開をするものと思われる。
   
上記に述べた99%の開票結果が、選挙の投票終了後のわずか1日足らずで発表できたのは、ブラジルの優れた電子式投票の導入によるものである。一昨年に行われたアメリカの大統領の決選投票で、僅差のフロリダ州の開票を1票づつ手作業で数えていたのには、全ブラジル人が驚くと共に、投票ではブラジルが、技術王国のアメリカを上回っていることに誇りを持ったものである。
   
電子投票は今回で3回目、すなわち4年前の前回の大統領選以降であると記憶しているが(2000年には市長市議選があった)、投票様式は数字でコード化されている。例えばルーラは13でセーラが45であり、自分が投票する候補の数字をインプットすると、候補者の名前がパネルに現われるようになっている。もし名前が間違っていれば、修正のボタンを押すと表示された名前は消え、新たに正確な数字を押すことになる。その候補の名前が希望通りであれば、確認のボタンを押して投票は終了する。
    
今回の投票では大統領、州知事、上院議員2人、連邦下院議員と州議員の6人の投票をする必要があったため、各有権者は投票する候補の数字を間違えないため、それをメモした紙切れを持参していた(それは投票所にいる係員に聞いても、選挙法に違反するため教えてくれないことによる)。投票は数字のインプットを間違えさえしなければ、1分足らずで終了する。
   

ルーラの経歴

ルーラの正式名はルイス・イナシオ・ルーラ・ダ・シルバであり、1945年10月27日に東北伯のペルナンブーコ州、ガラニュン市に生まれ、現在は57歳である。父親は幼いルーラを母親に残し、ブラジル最大の港湾であるサンパウロ州のサントス港の沖仲仕として働くために出稼ぎに出ている。
  
母親は1952年にルーラが6歳の時に他の兄弟と共に、当時東北伯の内国移民を鈴なりに乗せ、サンパウロやリオデジャネイロに運んでいたトラックで、ペルナンブーコ州から13日の日数をかけ、父親の働くサントスに移動している。そのためルーラはサンパウロに定着した典型的な内国移民の1人である。
  
その後1956年に一家はサンパウロ市に移動し、ルーラは一説ではイピランガ区にある日本人の洗濯屋で12歳から15歳まで働いたことがあるとのことであるが(本人がそう言ったとのこと)、1961年から1963年には政府の職業訓練所の旋盤工課程に通い、それを修了している。したがって学歴はそれだけしかない。
  
その後共産党に関係していた兄の勧めにより、労働運動を始め、1967年にはすでにサンベルナルドドカンポ市の金属、機械、電気産業の労働組合の幹部になっており、1975年にその組合の理事長に選ばれている。
  
その後は当時軍事政権下で非合法であった現在のPT(労働)党に入党し、指導者として活躍し、1980年には41日にも亘るストライキを指導したことで官憲からにらまれ拘留されこともある。 1980年代の初期にCUT(単一中央労組)を創設し、1986年に合法化されたPT党から連邦議員に出馬して全国一の投票数で選出されている。しかしルーラの議員生活はこれだけであり、それがルーラの為政者としての経験がないと言われる理由になっている。 その後はPT党の党首として1989年、1994年と1998年の大統領選に出馬しながら、いずれも敗退し、今回必勝を賭けた最後の大統領選に臨んでいる。
  

セーラの経歴

セーラは正式名がジョゼー・セーラであり、1942年3月19日にサンパウロ市のモッカ区でイタリア移民の三世として誕生し、現在60歳である。父親はサンパウロの旧中央市場(現在も存在する)でオレンジのボックスを持って商売をしていたとのことで、セーラは学生時代に父親の手伝いでここ働いていたと言われる。このオレンジボックスは、現在オレンジジュースの帝国を築き上げた同じくイタリア移民のクトラーレ一族の発祥の場所でもある。なお日本移民も当時はこの市場の野菜部門では主流をなしており、レスリングで有名なアントニオ・イノキもその1人であり、力道山に見初められたのはブラジルでであった。
  
セーラはサンパウロ大学の工学部を卒業後、全国学生連盟の理事長に就任しているが、1964年の軍事革命により、チリに亡命している。同国ではチリ大学の経済学の修士課程を卒業しており、ECLAC(ラテンアメリカ経済委員会)で働き、チリ大学の教授も務めていた。この当時に同じくチリに亡命していたカルドーゾ現大統領と知り合っている。
  
政治生活は80年代に始めており、1983年から1986年はフランコ・モントーロサンパウロ州知事時代(1983年~1986年)に企画局長を務め、1984年に間接ではあるが最初の選挙で選ばれた文民大統領のタンクレード・ネーベス(大統領就任直前に病死し、副大統領であったサルネイ前大統領が就任している)に依頼され、政府の計画案を作成するワーキンググループを指導していた。
  
1986年にサンパウロ州のPMDB党より連邦議員に選出され、1988年にはフェルナンド・エンリケ・カルドーゾ現大統領とマリオ・コーバス前サンパウロ州知事と共に、現在の政府与党であるPSDB党の創立に参加している。

1994年の選挙では上院議員に選出されており、カルドーゾ1次政権では企画相に任命され、その後2次政権では大統領候補に出馬するまで保健相に就任している。
  
したがって今回の決選投票では、1人は東北伯の内国移民、かたや日本移民も含めた外国系の三世であるブラジル人として、2つの全く違ったタイプの候補が戦うことになり、政策的なものだけでなくブラジルの南北をそれぞれ代表するブラジル人同士の一大決戦となる。


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