『性悪説』の国に生きる知恵

  峰村 正威


1.ブラジル人のしたたかさ

ブラジルに移り住んだ日本人なら、誰しも感じることのひとつは、この国の人びとのしたたかな国民性に接するときの戸惑いや違和感であろう。

ブラジル人はもともとラテン的な陽気さ、開放的なおおらかさ、現世享楽的な生活観をもった民族とされる。ユーモアや機知や風刺に富んだ小噺(ピアーダ)の巧みなことにかけての天分は、抜群といってもいい。友人にすれば、これほど楽しく社交上手で人間味豊かな民族はないだろう。 だがいったんビジネスや金銭のからんだトラブルになると、これが同一の人間かと思うほど手の平を返したように峻酷になる。激しい自己主張、国家や社会への帰属意識の薄さ、金銭への異常な執着、自分の財布が痛むときは“ごめんなさい”とはまずいわないことは、例えば車の事故の際、明らかに自分に非があってもなかなかそれを認めず、逆に開き直ったり、あれこれ言を左右にして弁償に応じようとしないことは、すでに多くのひとが経験したことと思う。

交通違反は大概金で事が済み、フィスカルがやってくれば裏金を巻きあげられ、官職につくと一族郎党を要職につけて稼ぎ、公務員が仕事もせずに幾つかの職をかねて給料をとり、架空の人物や死んだひとまでが年金をせしめ、会計士・弁護士・検事・判事までがグルになって多額の社会保障費を横領し、政治に癒着した利権で大金が動き、その盗みの構造はこの国の体質に沁みついているのではないか、と思われるほどである。

先日ある会合で聞いた話だが、州の流通税を十八%と決めたのは、その半分が徴収できればよく、残りの半分は脱税を見越した上でのことというのだから、事実とすれば、脱税は半ば公然の秘密ということになろう。 こうしたブラジル人の人となりや処世術には、日本人はなかなか馴染めない。分かっていても真似ができない。それはやはり日本人が、民族として長い間培ってきた日本的とされる価値観ー正直・誠実・勤勉・共同体への帰属意識・お上にたいする信頼・遵法精神・善意・同胞意識・生真面目さなどのせいであろう。

大袈裟にいえば、日本人はこの国でたえず日本的価値観と、ブラジル的価値観との衝突や葛藤に悩まされて生きているのである。日本人からみれば、こうしたブラジル式のやりかたは盗みであり悪である。だがブラジルでは、こうした悪があまり悪として意識されず、ごく日常的な出来事として罷り通っている。

 よくブラジル人の特性として、ずる賢さ(マリシア)や要領の良さ(サビィード)がいわれるが、それがカリカチュアとして描かれているのが、ポルトガル人を爼上にのせたピアーダである。そこでは、ポルトガル人がまさにマリシアやサビィードの正反対、つまりバカ正直とか、愚鈍とかの嘲弄の対象として採りあげられているのである。

かって吉田茂が田中角栄のことを、「あの男はいつも刑務所の塀の上を歩いていながら、落ちるところは外側だ」と評したそうだが、ブラジル人の場合は外側に落ちるだけではない。かりに内側に落ちたとしても、お家芸を使って悠々と正門から出てくるであろう。

     
2.中国は「同文同種」ではない

私は一年ほど前まで、丸四年あまり仕事で中国に暮らしてきたが、当初の私には、おそらく年輩の日本人なら誰しも抱いている中国へのイメージ、つまり中国は古代から日本の教師であり、同文同種の偉大な文化を産んだ先達であり、信義と礼節を重んじる東洋の君子国である、といった先入観から、中国文化への漠然とした畏敬や憧憬の念があった。 ところが、実際にビジネスとか日常の生活で接した中国人の立ち居振舞は、そうした私の期待を打ち崩すに充分過ぎるほどであった。

実利主義から拝金主義、国家や社会への帰属意識の欠如、徹底した個人主義、公よりは私の優先、責任の巧みな他人への転嫁、弁説は実に爽やかだがさっぱり実行が伴わぬこと、自分の非をなかなか認めぬこと、権威主義、脱税、コネと金があればなんでも解決すること、贋ものの横行、面従腹背、日常的な贈収賄、そして、党・官・財を結ぶ桁外れの汚職、腐敗、疑獄...と続く想像を絶した人びとの対応や厳しい現実に、しばらくの間は、ストレスとショックに苛まれる日が続いた。 われわれが教育や書物から培われた、中国や中国文化への印象と実際との乖離は、あまりにも著しかったのである。われわれの観念的な中国古典文化への理解や畏敬が、現代中国の実像とはかけ離れたところで、ひとり歩きしていたのかもしれない。

だが、思うに日本人の倫理観の形成にもっとも重要な影響を及ぼしたのは、いうまでもなく孔子の興した儒教であろう。儒教は、中国でも古く漢代から士人(官僚)教育の中心に据えられ、近くは清朝まで国家の倫理として採用されてきた。 その教典である『論語』は中国の古典のなかでは、もっとも日本人に親しまれてきたし、孔子の教義を忠実に継承した孟子とともに、いわゆる「孔孟の道」は、江戸期には幕府の官学として武士道を完成させ、明治維新以降は教育勅語、小学校の修身、中学での漢文といった教育の原理として、敗戦まで連綿と続いてきたのである。

孔孟の教えは、仁・忠孝・信義・礼節であり、これは人倫の基盤をなすという人間への深い信頼や善意に立った、いわば理想主義あるいは建て前主義といえる。 一方では『唐詩選』などを代表とする、中国の詩文の華が盛んに鼓吹された。漢文などで最初に習うのは、論語のほかには李白、杜甫、白楽天など唐代詩人の絶唱であったことは、覚えておられる方も多いだろう。さらに中国文学の泰斗、吉川幸次郎氏から、「...人間への広い関心、乃至は愛というものは、中国の文学が古来その使命として来た」とか、杜甫の詩にふれて「常に世の中のすべての人びととともに悲しみをわかちあおう、あるいは喜びをわかちあおうという感情が、中国の文学には、いつもその根底に濃厚に流れている」(『中国の古典と日本人』)などと格調高く述べられれば、誰しも中国の文化、そしてそれをつくった中国人への熱い想いを抱くのは当然ともいえよう。

それはともかく、日々中国人への対応に苦しんでいた私は、そのうちあることに気がついた。まてよ、この生身の中国人たちは、あまりによくブラジル人に似ているではないか、その思考や行動の原理は、日本人よりはブラジル人の方に近いのではないか、同文同種などというのは、日本人の勝手な思いこみではないか。そう思うと、私は憑きが落ちたように気が楽になった。ブラジル人に対しては、ある程度免疫ができている、中国人もブラジル人と思えばよいのだ、そう腹をくくって中国人に接するようになると、あまり腹も立たず、むしろ親しみを感じるようになったのは妙であった。     
   

3.『性善説』の日本と『性悪説』の中国・ブラジル

では中国人とブラジル人との共通項はなにか、日本人はなぜこんなに中国人やブラジル人と違うのか、あれこれ考えあぐんでいるうち、『性悪説』と『性善説』がこの疑問を解く鍵になるように思えてきた。中国人もブラジル人も、その思考・行動の原理は、『性悪説』であり、一方の日本人は『性善説』を採っているのではないか、という仮説である。

 日本人が外国で暮らし、異民族・異文化に接し、いろいろカルチュア・ショックを覚えるのは、いわばこの『性善説』と『性悪説』との衝突、摩擦に起因しているように思う。少なくともこの仮説を応用すれば一応の説明がつく。

だがもともと『性善説』も『性悪説』も、中国が発祥の地である。孔孟の教えが『性善説』に根差していることはいうまでもない。だが特に「人の性の善なることは、なお水の低きにつくがごときなり」として、性善が生まれつきのものであると説く孟子に対して、荀子は「今人の性は生まれながらに利を好むことあり。その善なるものは偽なり」として真向から異を唱える。“偽”というのは人為という意味である。

荀子の説を平たくいえば、人間の本性は生まれつき悪だから、目が美色を好み、口が美味を好み、心が利を好み、肉体が安楽を好むのは、人間の自然な性情であり、これを放置すれば、争奪、妬み、殺生、淫乱、無法が起きる、とするのであるが、「人の学ぶは、その性善なればなり」という、あまりにも人間の本性にたいして楽天的な孟子に比べると、荀子の『性悪説』の方が、よほど人間の本音や人間性の本質を鋭くついているのではなかろうか。

孔子も孟子も、その理想とする「王道」を政治に実践するため諸国を歩き、当時戦国・春秋時代の諸侯を説いて自らを仕官に推挙するのだが、いずれも容れるところとならず、挫折してその晩年は失意に陥っていたという。「王道」の政治論が採り入れられなかったのは、おそらく、政治というすぐれて人間臭くおどろおどろしいゲームの現実の前に、その『性善説』的理想が敗れたからであろう。荀子の『性悪説』の方が、よほど煮ても焼いても食えぬ人間の本性を見抜いた現実主義だといえる。

もっとも荀子は、だからといって、人間の性が悪であることを是認しているわけではない。かれはむしろひとの性が悪だからこそ、ひとを礼節・信義に導く教育や学習が大切であることを説いている。いわば儒教の徳とするところを、荀子は孟子とは逆説的な方法で主張しているのであって、帰結するところは同一だといえる。

だが日本では、この『性善説』に基づく孔孟の教えが道徳の基盤となり、『性悪説』はほとんど忌避されてきた。おそらくその理由は、農耕民族の共同体、単一民族・言語・宗教の日本では、なによりも共同体を維持するため、内部の和、信頼関係、扶けあい、思いやり、などを必要とする倫理として、『性善説』による孔孟の教えの方が、風土的に根づき易かったからだと思われる。 土居健郎氏の「日本人の精神と社会を理解する概念」として有名な“甘え”についても、この日本的な共同体とそれを支える『性善説』が、“甘え”を生みだす土壌となっているような気がしてならない。

儒教が国の規範とされた中国でも、庶民の間では、むしろ道教の方が民間習俗に深い影響を与えていたとされる。儒教の説く「王道」が、歴代王朝で実現されたためしがなく、現実には「霸道」に終始したこと、またヨーロッパでは、マキュアベリの『君主論』が政治における権謀術数を説いたのも、『性悪説』に基づく「霸道」であろうし、十九世紀、イギリスがヨーロッパの勢力均衡を目指して、強力な軍事力を背景にパワー・ポリティックス政策を採ったのも、帰するところはやはり「霸道」であり、「霸道」が『性悪説』に基づくとすれば、今日でも国際政治がパワー・ポリティッックスに支配されている、という本質にはなんら変化はないといえよう。 

こうしてみてくると、どうも『性善説』が生きているのは日本だけで、中国を含む西欧の社会では『性悪説』の方が、それぞれの文化の基底に流れているのではなかろうか。

      
4.『性悪説』の勧め

話をブラジルに戻そう。過日ニッケイ新聞の創刊号に企業経営者の岡野氏から、昨今の日系企業が次々と倒産、閉鎖の憂目をみているのは、この国に通用しにくい日本人の思想、価値観、思考・行動様式に原因があるのではないか、勤勉、正直、忍耐といった日本人の特性を考え直さなければ、われわれの子孫は時代の波に乗れずに取り残されるのではないか、というタイムリーで深刻な疑問が提示されていた。

おそらく岡野氏はその企業経営を通じ、ブラジル人のしたたかな処世術や金銭感覚には、日本的美徳では立ち打ちできないのではないか、ということを実感されたのであろう。これは私流に解釈すれば、日本人の『性善説』とブラジル人の『性悪説』の衝突である。そしてその場合、どちらが勝者となるかはいうまでもないだろう。勤勉、正直、忍耐といった徳目は、なにも日本人の専売ではなく、プロテスタントの教義にも一致することで普遍性をもっていることは、人文研の宮尾氏からも指摘されていることだが、岡野氏の挙げた徳目がブラジルでは日本に比べ、かなり希薄であることも事実である。

ここでは岡野氏の説の裾野を少しひろげ、日本的といわれる特性を、農耕民族共同体に基づく日本文化の価値観として考えてみよう。日本文化の価値観が日本人の『性善説』に基づくものであれば、それが社会一般に通用するのは、残念ながら日本しかない。ブラジルを含め世界の大半の国々は、おそらく『性悪説』をその文化の基底としているせいか、“甘え”という日本的な概念が、日本以外の国ではほとんどみられないことは、この辺の事情を物語っている。世界の常識は日本の非常識といわれるように、日本は世界からみれば、きわめて特殊で異質な国だといえる。単一民族の共同体は、長い鎖国によって、さらに洗練された独自の文化や、内部志向的な精神風土の形成には役だったが、国際的な価値観からはますます乖離し、異質化していった。『性善説』が温存されるわけである。

いわばそうした温室育ちの甘い精神的にひ弱な日本人が、ブラジルの海千山千といった、『性悪説』の筋金で鍛えあげたしたたかものと勝負して勝てるわけがない。だが生きることが戦いである以上、そう負けてもおられない。どうすればいいか、が外国の異文化のなかで暮らすわれわれには切実な課題となる。

抽象的ないいかたになるが、孫子のいうように「敵を知り己れを知らば、百戦殆ふからず」、まずこの国の文化が『性悪説』になりたっている、ということを充分に認識することが第一歩であろう。『性悪説』の国や人びとと戦っていくには、こちらも『性悪説』で対抗する以外にはない。まさに“眼には眼を”である。

だがここではっきり断っておきたいのは、『性悪説』で対抗するということは、なにも盗んだり欺いたりの悪いことをしよう、ということではない。ここでいいたいのは、『性悪説』の厳しい人間観を身につけようということである。人間は本来悪いことをする動物である、容易に人を信ずるなかれ、言葉には裏があると思え、人を測る物差しは言葉ではなく行動である、軽々しく謝罪するな、(ブラジルや中国流でいえば、謝罪することは自分のふところが痛むことであり、謝れば許してくれる、という“甘え”が通用する文化ではない)つねに相手の本音を見極めること。こういった『性悪説』の赤裸々な人間像の真実を直視することは、『性善説』という一国平和主義の住心地のよい仲よしクラブに育った日本人には、なかなか馴染みにくいだろうが、それだけ相手は苛烈な風土のなかで、絶えず戦乱や競争や緊張を強いられる関係のなかで生きてきたのである。負け犬になりたくなければ、こちらも『性悪説』で武装するしかない。

今日国際化の必要が叫ばれているにもかかわらず、日本がなかなか国際化ができないでいるのは、日本人の『性善説』が大きな足かせになっていると思われるが、この際日本人ももっと『性悪説』に学ぶ姿勢が大切なのではなかろうか。

『性善説』は、だからといって無論放棄する必要はない。『性善説』はひとつの立派な生きかたであるし、日本のようにそれが通用する社会ではそれを活用するばよいのである。だからブラジルに暮らす知恵としては、『性悪説』をよく認識することで、これはその国の価値観や文化を知る上で大切なことである。だがそれは決して、正直、勤勉、誠実といった日本的とされる美徳を捨てることを意味しない。要は相手によってこれを使い分けるということで、ポンペイアの西村氏の始めた農工高校が、プロテスタンティズムあるいは力行会の精神で人造りを行なうことは、『性善説』の孔孟はもちろん、『性悪説』の荀子も大いに奨励したことで、『性悪説』の風土に種を蒔く高邁な事業といえるだろう。

ただ『性善説』と『性悪説』を時と場合によって使いわけるということは、かなり気骨の折れることである。しかしこれは日本人にはある意味では宿命といってもいいことかもしれない。明治の開化期、近代化のために日本人は“和魂洋才”という苦しまぎれの知恵を生みだしたし、また“和洋折衷”という二重の生活様式を強いられたが、いまではそれが定着しているし、こうした棲みわけは日本人の適応能力を示すものといえるだろう。 それでも意識や価値観の上で二重構造をもつということは、精神にはかなりの負担とストレスとなることは避けられまい。『性悪説』には『性悪説』で対抗するといっても、筋金入りの相手に比べ、付け焼き刃といった弱みは隠せないないだろう。正直にいってどれほどの効果があるのかはわからないけれども、少なくとも『性善説』で対抗して玉砕するよりはいいであろう。

本来『性善説』を採る日本人が、相手の『性悪説』を逆手にとって本家の『性悪説』と戦うということは、勝てないまでも負けないようにするという、いわば持久または戦略防禦の姿勢にたつことである。「負けない」ということは戦略の基本であることは、岡崎久彦氏が『戦略的思考とは何か』のなかで、孫子の言葉を引いて例証している。このことは、ブラジルに暮らすわれわれにとっても、きわめて示唆的であろう。勝てないまでも負けないように生きるということは、最初から負けると決めこんで諦めてしまう生きかたとは、根本的に異なっている。いわば複眼的思考―二刀流を使うということである。

要はブラジルは日本とはかなり価値観の違う異質の文化、『性悪説』の国であることを骨身に染みて認識し、それを生活に活かしていけば、『性善説』に基づく甘い幻想ともいうべき思考・行動によって、ことごとく挫折と失意の負け犬になるよりは、よほど意識にも生活にも風通しがよくなるのではないか、というのが最近の率直な感想である。  

’98.7.6 「ブラジル経済報知」No.205


  
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