「畏友・故稲田耕一とツバロン港」について
   

    
稲田と私の関係については、5年前に書いた本文を読めば分かっていただけるが、文中、私は稲田への追悼のつもりと書いた。実は、稲田の死後、彼の長男のアルフレッド・開一君から「父が死んだあと、エリエゼルさんが私たち遺族にとても親切にして下さるのですが、昔、父はエリエゼルさんとどういう仕事をしたのでしょうか。父は昔のことはほとんど話してくれませんでしたので、森田の小父さんが教えてくれませんか。」と頼まれて、それではと筆をとったのが本当の理由である。
    
以前、中隅哲郎さんに見せたことがあった。彼は「ブラジル日系社会の歴史の裏話として発表すべきだ」と勧めてくれたが、中隅さんが何か書くときに使ってもいいですよ、と返事しておいた。その中隅さんも亡くなって早くも2年が過ぎた。彼に言われたことも思い出し、Web Siteに載せておけば、費用もかからず、将来、利用する人も出てくるかもしれないと思い、BIZPOINT の鈴木さんの好意に甘えて、掲載しておいてもらうことにした。
  
本文中にセニブラの名前も出てくるが、昨年、日本側がリオドセ社の持ち株を800億円で買取り、セニブラは100%日本の会社になった。戦後多くのナショナル・プロジェクトが日伯間で誕生したが、健在なのはセニブラだけである。一昨日(8月14日)サンパウロ大学工学部の講堂で、日本総領事館、JICA、サンパウロ州森林院などの主催によるシンポジウム「植林と進歩 −環境と調和した人間生活−」が開催された。
 
その中で、セニブラのプレゼンテーションを見たとき、かってのリオドセ社との仕事を思い出し感慨無量だった。この拙文が戦後の日伯経済交流の歴史を理解するための一助ともなれば幸いである。

(2002年8月16日 森田 左京)
 

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