<出稼ぎ高齢者の見た日本>
   

遠ざかる故郷=\ 「ブラジルに移住してよかった」 (1)

10月17日(水)付けニッケイ新聞より転載


   
「やっぱりブラジルに行って良かった。こんなところにいても、しょうがなかったね」

 今年六月、渡伯以前に入植していた北海道の開拓地で、聖市在住の川畠日出男(六九、北海道出身)・浜子(六八、神奈川県出身)夫妻は、予期せぬ風景を目の前に立ちすくんだ。 そこは一面に熊笹(くまざさ)が生い茂り「原始林に戻ってしまった」かの様相を呈しており、若き日の自分たちが鎌(かま)や鍬(くわ)を手に格闘した痕跡は、跡形もなくぬぐいさられていた。

 日出男さんは戦前に、七歳で家族と共に南洋パラオへわたり、その開拓地で八年間を過ごした。敗戦で全てを失った父親は、内地へ引き上げると同時に、旭川市西神楽で新規政府払い下げを受けたばかりの、その開拓地へ入植した。
それゆえ、二十八歳で渡伯した日出男さんにとっての日本での思い出は、青年期を過ごしたこの開拓地に結晶化されていた。イメージの中のこの"ヤマ"(耕地)は、祖国に直結する特別な舞台だった。 "故郷"とは、親密な人々との大切な思い出の舞台であり、物理的空間以上の心理的意味を持つ場だ。 子が親を選べないように"故郷"も生得的だ。そこを離れたとたん固定され、時と共に懐かしさを醸成する。でも、現実の場所・空間は変化していく。 いやおうなく"故郷"は新しくなってしまう。

かつてそこで、胸突き八丁の傾斜地をよじ登りながら、鎌で熊笹を刈り、人力ではどうにもならない深く大きな根を爆薬で吹き飛ばす作業を繰り返した。機械化とは無縁の開拓だった。当時共に開拓した十数家族のうち、現在まで残っているのは三家族のみだった。将来を愁(うれ)いた彼らは、残った力をふり絞って会館まで建設したが、結局、若い人たちは都会へ出てしまい、年寄りだけがしがみつくように住んでいる。 偶然出会った昔の仲間は「出たくても土地が売れなきゃ・・・」とこぼしていた。

懐かしの地が「さびれてしまった」という切なさと、「移住してよかった」という安堵感(あんどかん)が合半ばする複雑な心境だった。 伯国通貨が安いおかげで、こちらで稼いで日本を旅行することは厳しい。でもデカセギのおかげで事情は変わった。多少のバツの悪さと重労働を我慢すれば、訪日するだけでなくお金まで貯(た)められる。

川畠さんの場合はバブル最盛期の一九八八年からだった。横浜の日産自動車部品工場で、毎日三〜四時間の残業をこなし、時には月五十万円にもなった。手持ちの小型グラインダーで金属部品のヒビを削って修正する危険な仕事だ。一年続けたら腕がしびれるようになり「小さな物をつかんでも握っている感覚がなくなった」という。結局、そのしびれが治るまでに、仕事を辞めて半年近くかかった。

浜子さんは付き添い婦として七年間働いた。

「開拓で苦労したせいかしら、日本の人から気がおおらかだってよく言われたわ。新しい看護婦が入ってきて古株に苛(いじ)められると、なんでか知らないけど私のところに泣き言をいいにきたわ」  共働きしながら 「いつか北海道へ旅行したいね」 と話し合っていた。貯めた資金の大半は聖市内に購入した中古家屋とその改築費に充てられていたからだ。

ところが、昨年末の川畠さんの誕生日、四人の子供たちから思いがけないプレゼントを受け取った。日本旅行だ。そうして訪ねた北海道で、冒頭で紹介したような、新しい"故郷"の姿に遭遇した。 故郷は、いつまでたっても故郷だ。でも移民にとってのそれは、既に「いつか帰るべき場所」ではないだろう。では、通常言われるような「よりどころとなったり、安らぎを得られるところ」なのだろうか。

移民が心理的に帰属する"故郷"は、どこにあるのだろうか。(深沢正雪記者)

   
    

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