我がブラジル遍路覚え書き (その1)

鈴木 勝也

「ラテンアメリカ時報」2001年7月号より転載



1.初体験のブラジル

 私の外交官生活も40年近くなるが、南米は未知の世界のままだった。1993年7月、当時、本省で情報調査局長の職に在った時、直前に行われた東京G7サミットの成果を南米の主要国にも説明するということで、ブラジルとアルゼンチンに駆け足で出張したのが唯一の経験だったからである。

 1998年8月の或る朝、在ベトナム大使としてハノイに駐在していた私に本省の事務次官から直々に電話だという。何事かと思って受話器を取ると、近々転勤発令するので、今度は在ブラジル大使としてブラジリアに赴任しろとの話だった。ハノイも既に3年になっていたので、そろそろ転勤の時期だとは思っていたが、ブラジルまでは想像が及ばなかった。次官の話は簡潔で、打診というよりは命令に近かったと記憶する。勿論、他の可能性については、一切匂わすこともなかった。

 青天の霹靂にたじろいだ私は、「ポルトガル語はやったことがないが…」と答えるのがやっとだった。しかし、次官はこんな弱々しい抵抗で怯む人ではなかった。「ブラジル人は、スペイン語圏の人達と違って、皆、英語やフランス語を上手に話すから、心配は要らないと思うよ…」との返事が即座に戻って来た。

 私的なことで恐縮だが、私は外務省に入省して以来、自分の人事について文句を言ったことは一度もない。自信がないこともあったし、気が進まないこともあった。しかし、自分の二つの目玉だけに頼るより、他の沢山の目玉が出した結論を尊重して頑張ってみるのも、また、人生だと日頃から考えているからである。それに、多少下品な言い方かもしれないが、行きたい所にだけ行かせるなら、誰がわざわざ給料まで払うものかという気持も常々あった。

 いずれにせよ、そういう次第で私のブラジル行きは一瞬にして決まってしまったのだ。とはいえ、実際にハノイを離任したのは98年暮れも押し詰った頃だった。12月中旬の小渕総理の訪越を終えるまではハノイに居ろとの御指示だったからである。この間、ブラジル行きの準備をせねばと気は焦ったが、ハノイ暮らしでは如何ともなし難かった。一度短期間帰国の機会を得た時には東京の大きな書店を片端から訪ね歩いたが、ベトナムに関する本は棚も狭しと並んでいるのに、ブラジルに関する本は数冊並んでいれば良い方で、愕然とし、我が国民の関心の低さに驚いた。

 明けて99年1月中旬、東京経由でブラジリアに着任した私は、年甲斐もなく宿題を忘れて登校した小学生のような罪悪感と劣等感で押し潰されそうな心境だった。それに、ストイックな社会主義のベトナムから極度にヘドニスティックなブラジルへの頭の切り換えは、私の適応能力の限界を遥かに越えるものと感じられた。

 ブラジリアでの生活が始まると、悪い予感が次々に的中した。この国の人々は、外務省の役人やサン・パウロのエリート・ビジネスマンを別にすれば、英語もフランス語も全く通じない人々であることが程なく判明した。また、人口1億7, 000万という南米一の堂々たる大国なのに、国際語の新聞も全く存在しないことも判明した。後で分かったことだが、この国は国際理解や貿易の促進にほとんど関心のない在るがままの国であり、その意味では、矢張、大国なのである。来てしまった以上、文句を言っている場合ではないと気を取り直し、早速、週2回のポルトガル語の個人教授を頼み、これは歯を食いしばって今日まで続けている。進歩は誠に遅いが、お蔭で辞書を引きつつも新聞や雑誌に目を通し、世の中の動きを曲りなりにもフォロー出来るようになった。
   

2.思い悩んでフィールドへ

 言葉と同様、大いに危機感を抱いたのが土地勘の欠如だった。日系進出企業の関係者や現地の日系人と話していると、聞き慣れない地名が機銃掃射の如く飛び出して来るのには本当に閉口した。かねてから「出先の仕事はロジックよりフィールド」を信条にして来た私にとっては、誠に居たたまれない気持がしたのである。

 早速、何は置いてもフィールドに出ようと決意した。とは言っても、何しろ日本の23倍で東西も南北も共に約4, 000キロという巨大な国が相手だから、そう簡単なことではない。そこで、着任1年目には、少くとも(ア)大使館の領事管轄下にある2州、(イ)在伯7総領事館の所在地、そして(ウ)いわゆる「ナショナル・プロジェクト」の現場だけは優先的に訪問しようと考え、スタートした。

 因みに、大使館の領事管轄下にあるのは、膝元の連邦区とゴイアス、トカンチンスの2州である。また、7総領事館とは、クリチバ、サン・パウロ、ベレーン、ポルト・アレグレ、マナオス、リオ・デ・ジャネイロとレシフェであり、ブラジルは日本の総領事館の数が多いことでは米国の17に次ぐ規模である。更に、「ナショナル・プロジェクト」とは、60年代や70年代のいわゆる日伯黄金時代に資源確保を目指す日本の政財界とブラジルの工業化を目指す同国の軍事政権が相携えてこの国の各地で設立した一連の大規模プロジェクトのことである。
 具体的には、北部パラー州の州都ベレーン近郊のアマゾン・アルミ、南東部ミナス・ジェライス州イパチンガのウジミナス製鉄とセニブラ(紙・パルプを製造)、同じく南東部エスピリト・サント州の州都ヴィットリアのツバロン製鉄、パラー州南部の山奥にあるカラジャス鉄鉱山、それに、既に撤退してしまったが、リオのイシブラス造船所である。

 また、「ナショナル・プロジェクト」と呼ぶか否かは別として、日伯両政府の協力によるセラード農業開発の記念碑的なプロジェクトとして「プロデセール(PRODECER=セラード開発計画)」がある。セラードは、ブラジルの内陸部に延々と続くサヴァンナのような半乾燥地帯であり、その酸性土壌の故に昔から農業は出来ないと言われて来た土地である。「プロデセール」の事業は、7州21事業地を対象に本年3月の終了まで20年以上に亘り実施され、大規模な土壌改良と灌漑施設の構築により不毛の大地を一大穀倉地帯に変え、ブラジルを世界第2位の大豆生産国にした。

3.我がブラジル遍路

 本題に戻ると、こうしてスタートした私のブラジル各州訪問は着任1年目の1999年にはサン・パウロ、パラー、ゴイアス、トカンチンス、リオ・デ・ジャネイロ、パラナ、ペルナンブコ、セアラ、ミナス・ジェライス、アマゾナス、リオ・グランデ・ド・スル、サンタ・カタリナの12州に及んだ。この間、「ナショナル・プロジェクト」の現場にも足を延ばし、アマゾン・アルミ、ウジミナス、セニブラ、ツバロンとカラジャスを視察したほか、「プロデセール」の事業地としては、クリスタリーナ、パイネイラス、ペドロ・アフォンソとパラカツにも足を運んだ。

 着任2年目の2000年には、バイア、セルジッペ、マラニョン、マット・グロッソ、マット・グロッソ・ド・スル、ロンドニア、アクレ、アラゴアス、パライバとリオ・グランデ・ド・ノルチの10州を訪問し、マラニョン州では南部バルサスの「プロデセール」事業地も視察した。

 着任3年目の2001年には、1月にピアウイ、3月にロライマ、そして、4月にはアマパと、残る3州を訪問し、2年と3か月でようやくブラジル全26州訪問を完了したということである。なお、エスピリト・サント州だけは、州都ヴィットリアのツバロン製鉄所視察が重点だったので、非公式訪問の形をとったが、他の25州はいずれも公式訪問の形で実施したものである。

 私のブラジル全州訪問は、飽くまでも結果であり、当初から記録達成を狙って挑戦したというものではない。先にも書いた通り、着任1年目の最低限の目標は立てたが、それが現実的な目標か否かすら私には分からなかったのである。しかし、各州訪問を続ける過程で次第に分かって来たのは、日本の大使の訪問が州当局、州経済界、現地日系人等から非常に歓迎され、地元のマスコミで大々的に報道されて、「歩く広告塔」の役目ぐらいは果たせそうだということである。加えて、伯南部のサンタ・カタリナ州を訪問した時には、日本の大使の公式訪問は1983年の伊達邦美大使以来実に16年振りだと聞かされて、これで良いのかと考えさせられた。日本の大使の任期は総じて他国の同僚に比べ短いが、それでも1回の出張で幾つかの州をハシゴすれば、全州を任期中に訪問することも不可能ではないとの見通しを持つに至ったのは可成り後になってからである。

 行く先々でよく耳にしたのは、伊達邦美大使や小村康一大使が昔来訪したという話だった。手元に正確な記録がないので断言は差し控えるが、歴代の在ブラジル日本大使で全州を訪問したのは、恐らく私が初めてではないかと思う。それは、このブラジルにおいてもトカンチンス、ロライマやアマパのように80年代末から90年代初めにかけて新設された州もあるからである。

 大使は越中富山の薬屋さんじゃあるまいし、歩き回わればよいというものではないとのお叱りを受けるかもしれない。大使の本来の仕事は、流暢なポルトガル語を駆使してこの国の要路と渡り合い、情報を収集し、講演やインタビューを巧みにこなして日伯両国間の意思疎通に努めることであろう。私とて、それが痛い程分かるからこそ、身の縮む思いで着任したのである。しかし、一旦お受けした以上、言い訳や泣きごとを並べている場合ではないと思うので、せめて己の一身で出来ることは一生懸命にやろうと考えた次第であり、これが我がブラジル遍路の背景である。
  

4.日系移民の原点サントス

 ブラジルの各州訪問をお遍路さんの霊場巡りに例えるのは適当でないかもしれないが、各州を巡礼の如く訪ね、各地の日系人と話しているうちに、ブラジル日系人社会には「聖地」ないし「総本山」のようなものがあることに気が付いた。それは、サン・パウロ市から約70キロの地点にあるブラジル最大の港サントスである。1908年(明治41年)、第1回ブラジル移民を乗せた笠戸丸が4月28日に神戸港を出発し、約50日に及ぶ航海の後、6月18日にこのサントス港に到着したのである。この国の日系人は、このサントスを移民の「原点」だと言う。アメリカでは、マンハッタンの沖に浮かぶエリス島が欧州から流入した移民の「原点」であったが、サントスはそれと似た重要な史跡なのである。

 そこで、順序は逆になったが、ブラジル全州訪問の締め括りとして本年(2001年)5月、サントス訪問という宿題を果たした。サントス市の美しい海岸通りに立つ笠戸丸日本移民の家族の銅像は、イタリー系女流彫刻家の手になるものと聞いたが、若い夫婦と子供が初めて見るブラジルの大地を遠望している姿は胸を打つものがある。こうして未知の大地に己が人生を託した日本移民の苦難と感動の物語は、石川達三の「<RUBY CHAR="蒼氓","\Eボウ・・」、北杜夫の「輝ける碧き空の下で」や角田房子の「アマゾンの歌」等の古典的名著があるので、これに譲りたい。


5.全般的印象

 ブラジル全州を訪問したと話すと、印象はどうでしたと質問されることが多い。真面目な話、「益々分からなくなる」というのが私の率直な答である。天体望遠鏡で遠くから眺めている方が分かった気になれると言ってもよいのかもしれない。ブラジルはそれ程多様性に富む国なのである。赤道直下の熱帯もあれば、毎年雪が降るサン・ジョアキンのような高地もある。欧米で活躍する超現代的エリートも居れば、未だ文明と遭遇したことすらない原始そのままのインディオも居る。世界で屈指の貧富の差だから、超金持から超貧乏人まであらゆる階層の人々が居る。人種も宗教もありとあらゆるものが混在し、共存している。結局、ブラジルは世界の縮尺版だということではないかと思う。

 とはいえ、各州を旅するうちに我々の抱くブラジルのイメージは少し間違っているかもしれないと思うようになったことも事実である。我々というのは、第一義的には外国人のことであるが、ブラジル人自身に当てはまることも少くない。より具体的に言えば、ブラジルのイメージは余りにも臨海部のそれに偏しており、近年急速に発展しつつある内陸部にはポルトガルの植民主義500年の垢が滲み込んだ臨海部とは異なるダイナミックな現実が形成されつつあるのに、これが兎角見落とされがちだということである。ブラジルと言えば、極端な貧富の差、大都市の犯罪の多さ、快楽主義、刹那主義といったイメージが真先に頭に浮かぶ人が多いと思うが、この国は決してそれだけではないのである。

 ブラジルの今ひとつの特徴は、一口に150万人と言われる世界最大の日系人社会がこの国に在るということである。しかも、訪問した全州に日系人が居たことは、誠に嬉しい驚きだった。人数は、サン・パウロ、パラナやパラーのように多い所もあれば、パライバ、セルジッペやアマパのように非常に少ない所もあった。一世の高齢化、三世・四世の現地化、日本への出稼ぎによる空洞化等はどこの日系人社会でも今や深刻な問題と見受けられた。日本の大使の訪問はどこでも温い歓迎を受けたが、村外れの釣堀横で雨に濡れ蚊に刺されながらの歓迎宴もあったし、非日系人との結婚が多い所では食事もそこそこに腸がよじれるようなダンスの輪に有無を言わせず引きずり込まれたこともあった。ブラジルでの日本大使は、外交官というよりは村長としての資質を期待されているのではないかと感じた次第である。いずれにせよ、私は各州訪問を通じこの世界最大の在伯日系人社会が我が国にとり如何に掛け替えのない貴重な財産であるかを痛感した。アジア諸国の中でブラジルとの関係を一世紀のスパンをもって語れるのも、また、このような大きな日系人社会を持っているのも、日本だけだからである。

 最後に、一連のいわゆる「ナショナル・プロジェクト」を視察しての印象を述べれば、かつて資源小国日本の行く末を真剣に心配し、長期的視野に立って地球の裏側のブラジル各地に大規模プロジェクトを構築した我が政財界の巨人達の勇気と信念に頭の下がる思いである。残念なのは、その後、日伯両国で風向きが大きく変わり、官民を問わず軽薄短小がもてはやされ、資源確保の戦略的重要性にまともに目を向ける人が少くなってしまったことである。東西冷戦も終って久しくなり、ドルさえ持っていれば、必要な時に必要な資源はどこからでも調達出来ると思っている人が多い。今日の米国は確かにこうした考え方が主流かもしれない。しかし、自ら豊かな資源国であり、しかも世界最強の軍事力を保有し、その時々のルール造りに格段の発言力を行使し得る米国と我が国とでは基本的に置かれた立場が違うということにもっと思いを致すべきではないかと感じた次第である。同様のことは穀物についても言える。我が国への輸入ということになれば、国内生産者との競合が問題になる。しかし、本当に大事なのは、世界市場への安定供給を確保するとの視点であろう。アジアには巨大な人口を抱える国が少なくない。こうした国が何等かの理由で或る日突然大量買付けに走ったらどうだろう。世界屈指の大輸入国たる我が国が影響されない筈はない。こうした観点から、世界の食糧庫として大きな可能性を秘めるブラジルともっと真剣に向き合い、これを育成すべきではないかと考える。
   

(すずき・かつなり 駐ブラジル日本大使)
   

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