我がブラジル遍路覚え書き (その2)

鈴木 勝也

「ラテンアメリカ時報」2001年8月号より転載


  
前回に続き、この号では私が訪問したブラジル各地方での見聞や感想を中心に述べてみたい。もとより旅行案内書を意図したものではないので、網羅的ではないことを最初にお断わりする。また、サン・パウロやリオ・デ・ジャネイロのように良く知られている都市については、私が新たに付け加えるものも考え付かないので、割愛させていただくことにする。
  
1.東北伯
 
 東北伯は、全て海岸線を持つ9つの州から成る。北の方から時計回わりに列挙すれば、マラニョン、ピアウイ、セアラ、リオ・グランデ・ド・ノルチ、パライバ、ペルナンブコ、アラゴアス、セルジッペとバイアである。昨2000年4月には、ブラジルとポルトガルの双方でいわゆる「ブラジル発見500周年」が大々的に祝われたが、これは、ペドロ・アルヴァレス・カブラルが1500年に今日のバイア州ポルト・セグーロに上陸し、ブラジルを「発見」した故事に由来する。海に面した東北伯は、ブラジルで最も古くから西洋文明に接した地域である。

 パライバの州都ジョアン・ペソアの大西洋を望む岬には「ブラジル最東端」と記した看板が立っている。大西洋上に伯領の孤島でフェルナンド・ジ・ノローニャという所があるから、大陸部のブラジルでは1番東だという意味だと思う。東北伯はブラジルで欧州に1番近い地域なのである。それだけに昔からオランダ、フランス、イギリス等との陣取り合戦も頻繁だったようで、州都には大抵函館の五稜郭に似た古い要塞がある。レシフェやナタールはオランダに占領された時代があり、サン・ルイスはフランスに占領されたことがある。ブラジルの大西洋岸の最北端はアマパ州であるが、その更に北は仏領ギアナ、スリナム(旧蘭領ギアナ)、ガイアナ(旧英領ギアナ)と続いており、往時の欧州列強の植民地争奪戦が偲ばれる。

 リオ<CODE NUM=00A5>グランデ<CODE NUM=00A5>ド<CODE NUM=00A5>ノルチの州都ナタールはリスボンまで飛行機で6時間半の由であり、欧州からの観光客も気軽にチャーター機を仕立ててやって来るようである。また、第2次大戦中は、米空軍がここに基地を設けて対岸アフリカ側のセネガルに陣取ったドゴールの自由フランス軍に渡洋補給を行っていたと聞く。同じ大洋とは言っても、大西洋は太平洋に比べ随分狭いのだなあと改めて実感した次第である。
 
 東北伯は、ブラジルの中でも貧困と保守的なことで知られる地域であるが、連邦政界で活躍する政治家も決して少なくない。サルネイ元大統領、マシエル現副大統領、マガリアンエス前上院議長等枚挙に遑が無い。これは、植民地時代から臨海部を中心にカピタニア制が敷かれ、藩主による領地・領民の統治のような古いタイプの地方政治の伝統が色濃く根付いているからではないかと思う。
  
 東北伯の臨海部は、昔から砂糖黍の栽培で知られる地域である。アラゴアス州のマセイオからリオ<CODE NUM=00A5>グランデ<CODE NUM=00A5>ド<CODE NUM=00A5>ノルチ州のナタールまで車で海岸沿いの道を旅行したが、沿道の景色は果てしなく続く砂糖黍畑で、成る程と感心した記憶がある。しかも、畑は機械が使えない急な斜面が多いから、今でも相当な労働力が必要なのだと思われた。
  
 ブラジルという国の生い立ちと深い係わりを持つアフリカ黒人奴隷導入の原点は、この砂糖黍畑の凄まじい労働力需要だったと聞くが、恐らく米国南部の綿花栽培と似た歴史なのであろう。ブラジルの奴隷制度は、1888年に廃止されて以来久しいが、この国の社会構造に残したその爪跡は今も色濃く残されており、白人文明の一側面として新大陸に刻み込まれている。上に行くほど白く、下に行くほど黒い「富士山型」とも言うべき社会構造は、植民地解放とアパルトヘイトが終わった今日の世界では、南北米州以外には見当たらない特徴である。
   
 アフリカのついでに言えば、バイア州とその州都サルヴァドールは、ブラジルの中でも最もブラジル的な所だと思う。ヨーロッパ文化とアフリカ文化が接触し、化学変化を起こし、いずれでもない新しい文化がここで見事に花開いているという意味である。食べ物ではムケカやアカラジェ、音楽ではサンバやアシェー、宗教や美術ではカンドンブレーやイエマンジャー信仰、武術ではカポエイラ等が広く知られている。確かにリオやサン<CODE NUM=00A5>パウロを中心に文化面で活躍している黒人も決して少なくないが、それは目が高く懐の温かい客やパトロンが多いからであり、所詮、サン<CODE NUM=00A5>パウロはアメリカ的、リオはヨーロッパ的で、真にブラジル的なユニークさとなるとサルヴァドールに及ばないと思う。
  
 東北伯で今光っているのはセアラ州だと思う。52歳のタッソー・ジェレイサッチ州知事は、次期大統領候補としてもマスコミによく登場する政治家である。中央の政治についてもよく重みのある発言をするし、州都フォルタレーザは観光施設の整備と近代化を着々と進め、欧米の避寒客を大勢呼び込んでいる。知事を表敬訪問した時、こちらの顔を見るなり台湾海峡情勢は、朝鮮半島の南北対話は、日本経済の先き行きはと矢継ぎ早に質問を浴びせられ、当惑した記憶がある。考え過ぎかもしれないが、矢張、中央を目指す政治家ならではと感心した。
   
 同じく次期大統領候補としてマスコミに登場するのは、マラニョン州のロゼアナ・サルネイ州知事である。ブラジルで唯一の女性州知事で、ジョゼ・サルネイ元大統領の48歳の長女である。州都サン<CODE NUM=00A5>ルイスは、昔、「フランス赤道植民地」の首都としてルイ13世に因んで命名された歴史を持つ美しい熱帯の町であるが、ここでも観光振興に力を入れており、フランス風の宮殿やポルトガル風化粧タイル「アズレージョ」の古い家並みの修復が進められ、欧米の避寒客誘致をセアラ州と競い合っている。サン<CODE NUM=00A5>ルイスは、また、重要な港町でもあり、隣接して建設された近代的なイタキ港からはカラジャスの鉄鉱石や内陸諸州の穀物が世界に向けて積み出されている。サルネイ知事には、残念ながら先方の急用で会えなかったが、一般に有力な知事の膝元の州都は活気に満ち、道路も良く、落書きも少いという私の経験的尺度に照らせば、点数は高いと思った次第である。
   
 東北伯の各州は、皆、大西洋に面した州である。しかし、ペルナンブコ州とピアウイ州は海岸線が短く置くが深い巾着型である。東北伯は、一歩内陸に入ると「カーチンガ」と呼ばれる半乾燥地帯になるから、奥深いということは相当なハンディーになる。しかし、ブラジルで不思議なのは、豪州等と違い、どこへ行っても内陸の高原から湧き出た流れを集めた堂々たる大河があることである。ペルナンブコ州の西端ないし最奥にはペトロリーナという町がある。ブラジルで屈指の果実栽培で知られる町で、マンゴーやブドウを欧米向けに盛んに輸出しているが、この町は遠くミナス・ジェライス州に水源を持つサン・フランシスコ河の豊かな水のお蔭で発展したと聞く。対岸にはバイア州のジュアゼイロという町があり、同様に果実栽培が盛んで、マンゴスチン等東南アジアの熱帯果実を栽培する日系農家も少くない。
   
 ピアウイ州は、北端にわずか66キロの海岸線を持つだけであるが、南に向かって優に千キロは伸びている。貧困で知られる東北伯の中でも「ピアウイ」と聞けば「ブラジルの最貧州」と続くのが常識のようである。しかし、これまた、聞くと見るとでは大違いで、州都テレジーナは、人口約70万の整然とした近代都市であり、中心部には高層ビルも少くないから驚く。テレジーナは、内陸の大平原の町であるが、総延長約1,500キロというパルナイバ河とやや小さいポチ河の合流点に発展した町で、内陸とは言っても、水の問題はないと聞いた。
    
 また、この州南部の広大なセラード台地には、近年、資本と技術を持ったドイツ系やオランダ系の農民が南伯から盛んに流入して近代的な大規模農業を行っている由である。同じく州南部の話であるが、サン・ライムンド・ノナトという町の近くで1970年代末に4万8000年前と推定されるモンゴル系の人骨や洞窟壁画が多数発見され、保存の手立てと共に新たな観光資源としての開発が注目されている。ピアウイの貧困イメージの返上も左程遠い先の話ではないのかもしれない。
  
 東北伯には素晴らしい海岸が沢山ある。マセイオの黄金色の砂浜とエメラルド色の海、ナタールの延々と続く砂丘、そしてフォルタレーザの海岸を彩る三角帆のジャンガーダ等は己が文才の乏しさが恨めしくなるほどだ。
  
 
2.北伯

 北伯は、巨大なアマゾナスとパラー、辺境のロンドニア、アクレ、ロライマとアマパ、それに1989年にゴイアス州から分離して出来たトカンチンスの7つの州から成る。この内、海岸線が有るのはアマパとパラーだけであり、残りの5州は内陸州である。北伯は、面積はとてつもなく大きいが、総じて開発が遅れており、人口も少ない。道路も未だ未だであるが、そのスケールからして、むしろ、小型プロペラ機で空から眺めた方が全貌を把握し易い地域なのである。
  
 我が国にとって古くから馴染み深いのは、何と言ってもパラーの州都ベレーンである。1929年にアマゾン移住が始まった時から沢山の日本人がこのベレーンを通って様々な入植地に赴いたし、野菜や果物を作って売りに来たと聞く。当時、柔道家として名声を博し、ベレーンの名士として日本移民の世話をした「コンジ・コマ」(高麗伯爵との愛称で知られた前田光世のこと)、南米拓植会社の社員でシンガポールから持参した胡椒の栽培でトメアス(アカラ植民地)に一大ブームを起こした臼井牧之助等の名前は、今も語り継がれている。
 
 第2次大戦後の時期には、アマゾン・アルミという日伯合弁のナショナル・プロジェクトが1976年にベレーン近郊に設立され、多数の日本人技術者が駐在し、日本人学校も作られた。今も会社は健在であるが、駐在員は激減し、日本人学校も事実上閉鎖を余儀無くされたと聞く。しかし、ベレーンには木材のE社や海老のN社のように長年着実に活動している我が国の進出企業もある。また、ベレーン市内を中心に30近い店舗を持つ「イプシロン・ヤマダ」(山田商工)のスーパー・チェーンを築き上げた日系一世の山田純一郎氏は、全国誌でも紹介される存在である。
  
 ベレーンと共に日本人にとり馴染み深いのは、アマゾナスの州都マナオスであろう。勿論、アマゾン観光の根拠地としても有名であるが、それと並んで重要なのが「マナオス・フリーゾーン」と呼ばれる広大な保税加工区の存在である。1967年に輸入代替を目指して設立されたこの保税加工区への最大投資国は日本であり、二輪車、エレクトロニクス、家電、時計等多くの日本企業が進出して活躍している。アマゾニーノ・メンデス州知事は、私との会談で、アマゾナス州経済の98%がこのフリーゾーンに依存していると述べ、その重要性を強調していた。
  
 しかし、喜んでばかりは居られない。このフリーゾーンの税制上の恩典が2013年までとなっていることで、新規の設備投資を迷う日系企業もあると聞く。また、この国の市場開放が進むにつれ、国際競争力の劣る製品は、作っても売れなくなって来ている。加えて、韓国や中国の企業が進出し、南米市場や世界市場を睨んだ生産拠点とする可能性をも探っているように思われるからである。
  
 ベレーンもマナオスも国際的にはゴムで知られた町である。19世紀末から20世紀初めにかけて両市はアマゾンの密林から採れる天然ゴムの集散地として信じ難い好景気に沸いたと聞く。しかし、やがてアマゾンのゴムの木はマレー半島に移植され、大規模なゴムのプランテーションが生れるに及び、自然木から採取するアマゾンの天然ゴムは競争力を失い、束の間の好景気を今に伝えるのはベレーンの平和劇場とマナオスのアマゾナス劇場の豪華さだけとなってしまったのである。
  
 トカンチンス州は全てがこれからという新しい州であるが、この州の産みの親でもあるシケイラ・カンポス州知事は大変な親日家で再三訪日しているだけでなく、州都パルマス近郊に造成中の住宅団地を「ヴィラ・ヘイセイ」(平成村)と名付けたり、その近くの山を富士山に因んで「モンテ・フジト」と名付けたりしている。小学校も出ていないというセアラ出身の苦労人であるが、鋭い判断力と不屈の実行力に加え、大変な気配りの人でもあり、毎年、天皇誕生日を祝う大使公邸のレセプションにはパルマスから600キロの距離を物ともせずに知事機で駆けつけてくれる。
   
 北伯の締め括りとして、西の辺境であるロンドニアとアクレ、そして北の辺境であるロライマとアマパの4州にまとめて簡単に触れたい。こうした奥地を訪ねる度に考えるのだが、ブラジルが米国にこれほど大きく水をあけられたのは何故だろうか。ブラジル人に尋ねると、アングロ・サクソンに支配して貰えなかったのが残念だったと笑う。理由は色々あると思うが、大陸部の米国より大きく、しかも似通った生い立ちを辿ったブラジルが大きく遅れた背景には、ブラジルが大西洋岸にしか出口のない国で、奥地を活性化出来ないというハンディーがあったと思う。
  
 しかし、このハンディーにも解消の曙光が射し始めている。ロライマの州都ボア・ヴィスタで空からヘリで視察した国道174号線はマナオスからベネズエラの首都カラカスに至る立派な舗装道路として完成済で、大型トラックが盛んに往来していたし、ボア・ヴィスタからガイアナの首都ジョージ・タウンに至る450キロの道路も建設工事が進行中だった。アマパの州都マカパでは、夕食に招いてくれたカピベリベ知事が仏領ギアナの首都カイエンヌに至る国道156号線の全面舗装化と国境のオイアポッケ河の架橋は今や時間の問題と話していた。
    
 西の辺境ロンドニアの州都ポルト・ヴェーリョやアクレの州都リオ・ブランコで会った地元の政治家や財界人は「サイダ・パラ・ウ・パシフィコ」(太平洋への出口)の重要性を熱っぽく話していた。実現した暁には、これらの州が巨大なアジア市場へのブラジルの最前線になるわけだから無理もない。それに、アクレ州西部のクルゼイロ・ド・スルからペルー太平洋岸のトルヒーヨまでは直線距離で700キロ強しかないのである。我々はブラジリアから頻繁にサン・パウロやリオに行くが、いずれも約1,000キロだから、それより近いということである。勿論、世界有数の高山・地震地帯であるアンデス山脈の存在を忘れてはならない。しかし、昨年、南米首脳会議は南米のインフラ統合を合意したし、それを受けて担当大臣会議も開かれた。「両大洋間連絡路」(南米横断道路)については、既に十指に余るルート案が提示され、美人コンテストの様相を呈している。問題は、最初の1本を誰が作るかである。我が技術力と資金力が活かされる日が来ることを願って止まない。スエズ運河やパナマ運河に比肩し得る世界史的事業であることは間違いない。
    
 ブラジルは、久しく21世紀の大国と言われて来たが、もう21世紀である。いつまでも米国や欧州の裏庭に甘んじている筈はない。アジアという第三の絆を構築し、三極構造を作ってこそ、真のグローバル・プレーヤーとなる国であると思う。そして、それを応援することは、長い目で見て、我が国にとり決して損なことではない筈である。
     

(すずき・かつなり 駐ブラジル日本大使)

 

anim_front.gif (45167 バイト)

back.gif (883 バイト)戻る】【ホーム