[らいらっく文学賞 2001]  

ジ・パラナ・ホテル(1)

伊藤莉沙


ブラジルのロンドニア州、アマゾン河の支流であるマデイラ河から400キロの地点にそのホテルは存在する。40年前に日本を後にしてこの地に流れ着いた熊本出身の両親を持つ末の子供として私は生まれた。ここは小さな町で、売り物といえばパンタナルからアマゾンへ向けて車の旅の通り道であるという点であり、森林開発の最前線というところである。そしてこのホテルのウリも、“日本人が経営するホテル”という事実だけである。
 
ブラジルというところは様々な人種が混ざり合って出来た国であるから、真っ直ぐなクセのない黒い髪を持ち、灼熱の太陽にあたって小麦色に焼けた肌の幼い私は、いつもインディオの混血だと思われていた。だから、この地に珍しい日本人の子供だと判ると周りは暫(しばら)くの間は煩くなった。けれども、飽きっぽい性質を持つ彼らは一週間もする頃にはもう別の話に夢中になっている。そのため、私は人種差別というものを知らずに育った。
  
この地でただ一つだけ両親が気を使ったのは、子供の名前のつけ方であると、ある日大人になった私を前に母は笑った。日本人の名前には最後に“子”がつくものが多かったため、ブラジルでは男の子の名前だと思われるのだと言っていた。確かにブラジルでは女の子の名前の最後に“オ”の文字は使わない。例をあげると、男の子にはマリオ、女の子にはマリアと女の子は“ア”で終わる名前をつけるからである。
 
私は6人兄弟の末娘として可愛がられて育った。「真実」という名前はポルトガル語の中でもかわいく響くらしく、いつも近所の家に入り浸りその家の子供と同じように食事をし、昼寝までして夕方になってから初めて自分の家を思い出したようにコソコソと帰ってきたという。
この名前の意味を母から聞かされた時に、私の中で初めて日本語と日本人への懐かしさが胸に込み上げてきた。インディオに見える女の子から日本人の子供へと変身したのである。
 
兄や姉は既に結婚してマナウスなどの都会へと移り住み、年老いた両親の恥かきっ子の私だけが今はこのホテルを手伝っている。

冷房もなく扇風機で涼を取る部屋、熱を逃がすためにカーペットなどは敷かないで、客室の床は全て赤土を固めたものが使われている。本音を言うと、フローリングにする予算も、それを維持する予算もないのである。客室8つの質素なホテルを、日本人が経営しているという信用だけで利用してくれる旅行会社もここのところ増えてきた。そして懐かしい日本人客が来る度に、両親が喜ぶのである。
 
その家族は12月のクリスマス直前に突然やってきた。
  
車でサンパウロからロンドニア州の州都であるポルト・ヴェーリョへと家族六人の旅であった。事前予約も電話での問い合わせも何もなく、町の入り口にポツンとあるガソリン・スタンドで「日本人の経営するホテルがある」という話だけを聞いて飛び込んできた。大人が2人と子供が4人。サンパウロからポルト・ヴェーリョまで、ゆうに3000キロはある距離を大型の乗用車でやってきた。
同じ熊本出身だという事もあり、両親はもう故郷の話に夢中になっている。幸いともいうべきか、ホテルはガラガラで他に客もいない。家族を2部屋にわけて泊まってもらう事にした。
 
サンパウロには県人会が多くあり、同郷の人との交流も行われているはずであるが、こんな田舎町では同郷者どころか日本人の顔を見るのも数ケ月に一度である。
 
母は自分で漬けている花梅(梅干を懐かしみ工夫して梅干味に漬けてある漬物)を壷から取り出し、父は向こう側が透けて見えるほどのキャベツの千切りを汗をかきながら切り終わり、地元の家庭料理であるナマズのフライに添えて心配そうに出している。
 
子供達はお行儀よくテーブルを囲んで大人たちの話をさもわかっているような顔で聞いていた。長女の美貴と次女の香奈はまだ小さかったけれど、海の魚に比べると骨の多い川の魚の身を美味しそうに味わっていた。長男の浩司と次男の孝司は中学校と小学校高学年。いたずら盛りのはずなのに、大人のように振舞っている。

私が中学生の頃は、田舎町では当たり前のように周りの友達は結婚をしていった。小学生では裸足で道を走り回っていたのに、ある日突然皆サンダルを履くようになり、次々と結婚がまとまっていった。ブラジルの田舎町では早婚が多い中、25歳の今、結婚も出産も経験していないのは私だけだった。

私にも恋をした時はあった。17歳の頃、この町にやってきた日本人の彼は25歳で、約1ケ月をこの町で過ごしていた。ブラジルの各都市を回って薬草などの勉強をしている青年は、アマゾンからパンタナルへ抜ける前に、調べた事をまとめる為にここに滞在し、その間に私達は互いに恋をしていた。

私の暮らしはここに立ち寄る人達との交流に留まるため、他の日本人を知らない。父や母が昔持ってきたわずかな本と、この町を通り過ぎる旅人達が残してくれる本だけが、私の日本だった。
 
日本人の子供を見るのは初めてである。色褪せたTシャツを着て裸足で歩いていた自分と違う。小さな頃に母が作ってくれた“お手玉”を見せてみたが、何の反応もないこのお行儀の良い子供達に、私は少し戸惑っていた。
 
でも、彼らが普通の子供である事を、私は知ることになった。大人達が寝静まった後、小さな頭がそうっとドアの隙間から出てきて爪先立ちで他の部屋へと歩いて回るのを目撃した。その時、私は真っ暗なロビー兼リビングの窓際で星を見ていた。誰も私には気づかずに、探検を続けている。ガタガタと音がするので見てみると、扇風機を移動していた。
 
またドアが開く気配がしたので身を潜めていると、小さな女の子達がお互いに“シー”と言いながら部屋を出てきた。6歳と8歳の子供達は出入り口のドアをそっと開き、家の周りに作ってある花壇から花を摘み始めた。懐かしい歌を歌っている、あれは子守唄だろうか、幼い日に母が歌ってくれた記憶があるが私は忘れてしまっていた。
 
1人が“明かりをつけましょぼんぼりに”と歌うともう1人がお花をあげましょ、桃の花と続く。
「ねぇ、これって桃じゃないよね」と1人が呟(つぶや)くと、もう1人が「ブラジルに桃ってあるのかなぁ…」と首を傾げる。

ここロンドニア州に桃の花はない。その花が手に入るのは、サンパウロから南の方であると記憶している。もちろん私も見た事はない。ここにあるのは色鮮やかな原色の花、太陽の光を吸収したような色のイペーの木などである。それにしてもこの子供達はなんと日本語が上手いのだろう。日本人の子供とは、皆日本語が上手いのだろうか。兄や姉を思うと同じ日本人の子供として全然違うと感じる。兄弟は両親の事を「パパイ、ママイ」と呼んでいた。私はその呼び方が嫌いで、未だに「パイ、マーマ」ですませている。この呼び方が変わる事があるのだろうか。

真実の名前を母は「しんじつ」だと教えてくれた。日本語というのは、なんて美しい言葉だろうと、一つの言葉の持つ意味を深く考えたものだと幼い私は感じたものだった。それに見合う生き方をしてほしいと、両親の願いを感じた。また母は、私の名を「末子」にしようとも考えたと言っていた。これは“最後の子供、末の子供”という意味があるのだと聞いた時、真実で良かったと心から思った。学校でのクラス別表示の時に男の子の列に名を載せられる事になるはずであったと思うと、あんなに元気な子供時代を過ごせなかったはずである。

小さな女の子達は花を摘みおわり、部屋へと帰っていった。残されたのは天井で回る大型の扇風機であり、星空を眺めて沈んだ私の心だけであった。
 
明くる朝、私はフランス・パンにハムとチーズのサンドイッチを作り、パパイヤやマンゴーを朝食の食卓に並べた。夕べは久しぶりの日本人との交流で落ち着かず、良く眠れなかったため赤くなった目を冷たいタオルで冷やしている時に、客室のドアを元気良く開けて夜のパーティーを開いていた子供達が出てきた。

「おはようございます!」朝からお行儀は良い。

昨夜の扇風機騒動の理由を私はあれから調べていた。留め金が緩んだプロペラ部分が外れていたため動かなくなっていたものである。私は思わず浮かぶ微笑を隠していた。子供達は先程から昨日の冒険が発覚しないかを恐れている。共犯者の気持ちで、私もその話題には触れない事にした。扇風機は昨夜のうちに私が直していたから、両親に発覚するはずはない。大人びた子供達の顔の裏に、まだまだ幼さが残る事を、嬉しく思っていた。

花壇の花も大丈夫である。色とりどりの花は私と母の趣味で植えてある。少しくらい少なくなっても咎(とが)める人がいないのである。 私は母に耳打ちをして、花壇の花を少し摘んであげる事にした。サンパウロにも花はあるだろうけれど、まだまだ長い道のりがある彼らの旅を思うと、車中で気を紛らす花をプレゼントしてあげたいと思ったからだった。
 
昔この花壇で一緒に花を摘んだ青年がいた。一緒にマンゴーの木に登り、サルの真似をして私を笑わせた青年。自分の事を「俺」ではなく「僕」とよび、森林破壊を嘆いた青年。私と同じ黒髪を持ち、はにかむように恋を告げた人。彼も、別世界の人。
 
母と2人で大量の“おむすび”を作った。子供達は目を輝かせて「わー、おにぎりだぁ」と叫んだ。ナマズをフライするために“メリケン粉”をかけると、小さなお姉さんが小さな妹に「小麦粉はああやってふるいにかけてから使うのよ」と解説していた。おむすびとおにぎり、メリケン粉と小麦粉の違いを、私は知らない。きっと、母は知っているのだろう、けれど何も言わなかった。
 
自分の日本語に何の根拠もないけれど、間違いはないと信じていた。田舎者ではあるけれど、不自由だと感じた事もない。この町を通り過ぎていくいろいろな国の人達、私は英語とフランス語を少しずつ覚え、彼らとの交流をしてきた。でも、この田舎町は多くの場合、歴史に忘れられたオアシスのように、ひっそりと佇(たたず)んでいる。いざ開発問題などが起こるまでは、忘れ去られるのである。
 
またこの地域には多くの混血児がいる。フランス人の父を持つ子供、アメリカ人の父を持つ子供、インディオの子供。ほとんどの場合には母親は未婚であり、子供は父親の顔を知らない。あまりにも年若くして結婚を経験する彼女らは、また年若くして母になる。兄弟のような親子を、どれだけ見てきたことだろう。

キリスト教であるため、この国では人工中絶は法律で禁止されている。避妊知識を持たない少女達の多くは、不本意な出産を経験する事になる。
 
私にとって、17歳の時に経験した恋愛を今も忘れられないという事はよかったのかもしれない。そのために長い間1人で過ごす事になってしまったけれど。
 
大量の花梅入り“おむすび”を持って、家族6人は旅立って行った。この仕事は一期一会なのである。もう二度と、あの幼い顔に出会う事はないだろう。夜中に扇風機を交換した事や、ホテルの庭の花壇で桃の花を探した事は、きっと彼らの心のアルバムにしか存在しない思い出へと変わっていくのである。そして、いつしか彼らもこの町を忘れていくのであろう。
 
マナウスに住む兄から電話が入った。3人目の子供が生まれるという嬉しい知らせだった。田舎町では大都会よりも子供の数が多い。マナウスは大都会だけれど、この嬉しいニュースに私は「マナウスには良い番組がないみたいね」と昔から使い古されたジョークでかえした。「あなたの家にはテレビがないの?」というのが、このジョークのオリジナルである。テレビなどの娯楽がないから子供作りに励む、というあまり品があるとは言えないジョークだけれど、私はこれを気に入っている。
 
兄は豪快に笑いながら「ジ・パラナには眼鏡屋がないようにね」と私の皮肉を返してくる。暗に皆目が悪いからおまえの美しさが判らないのだな、と言っているのである。この兄は兄弟の3番目であり、私とは7歳も離れている。けれどいつも上機嫌で電話してきて、使い古されたジョークのやり取りを私と交わすのを楽しみにしているらしい。このやり取りは今月に入って既に3回目である。母は隣で早く電話を代われと催促しながら私に父を呼びに行くようにいいつける。父は庭のハンモックで釣りの本を読んでいた。
 
(2001/9/19)

 

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