[らいらっく文学賞 2001]  

ジ・パラナ・ホテル(3)


この小さなホテルはそんな時、束の間の賑わいを見せる事になる。町でも皆衣装を作り、音楽を楽しむ。私は今年のためにサッシ・ペレレというブラジルの民話である片足の黒人の男の子の衣装を作っていた。どれも自家製であるけれど、毎年違う衣装を一生懸命に作る。ブラジルで生まれた者として、カーニバルを楽しむのは年間のストレスを発散させる場として与えられた特権であると思う。それだけ皆の思い入れは大きい。

カーニバルの期間中は、私は町へは繰り出さないが、最後の日だけは新しい衣装を身に着け、滞在客と共にパーティーをする。ボリンニョ・デ・バカリャウというタラの身のコロッケはいつも好評だし、真夏のビールは美味しい。町の喧騒を避けている人達でも、このパーティーに参加しない人は皆無だった。

カーニバル滞在客のメンバーの中に、クリスマスをこのホテルで過ごしたアメリカ人の夫婦が今年は新しく加わっていた。前回の滞在でこの町を愛したという夫婦だった。 この町には確かに何もない。ある物といえば落ち着いた雰囲気だけだし、車で少し行ったところにあるマシャード河だけである。魚料理と野菜、それに美味しいビールを堪能する午後の日差し。それと静けさだけだった。

そしてそれは丁度8年前にトーマが愛した全てだった。あの時の私の衣装は、アマゾン河に住んでいたイアラという伝説の人魚であり、彼の衣装は何故かメガネをかけたインディオだった。このアメリカ人の夫婦は、トーマの記憶を私の中に蘇らせ、私の心は八年前と少しも変わらずに高鳴っている。
  
カーニバルが終わり、本格的に新学期が始まった。ブラジルの夏休みは12月の始めから2月までの約3ケ月間続く。町の子供達が元気良くホテルの前を通っていくのが微笑ましい。そしてそんな時には失われた自分の未来に想いを馳せ、淋しくもなる。愛する人と2人で子供を育てながら普通に暮らしていくのが、私の夢だった。

「ボン・ヂーア、チア・マミ(おはようマミおばちゃん)」  子供達が挨拶をする。
「ボン・ヂーア!(おはよう)」 私は声を張り上げて応える。そんな毎日が幸せだと、ここでは感じる事が出来るのである。

子供達はブロンドから黒人、インディオとのハーフなど色々な人種が混ざり合っているが、彼らの世界ではそんな外見の違いは意味を持たない。あるのは友情や共に同じ町で暮らす仲間だという意識だけである。

幼い頃、私も彼らに混じって学校へ通った。裸足で車の通りの少ないアスファルトを駆け足で思うままに歩んできた。あの頃は大地を肌で感じていた。

「フェルナンド、もうおねしょは卒業した?」  ひときわ小さい男の子に声をかける。
「チア・マミ、僕はもう小学生だよ!」 
胸を反らせながらフェルナンドが応える。大きなリュックに教科書を詰め込み、踝(くるぶし)までくるお兄さんの白衣をまとっている。ブラジルの学校の多くは、未だに白衣を洋服の上に着させる。一種の制服であるが、小さな子供は成長した兄弟のお下がりを着ている。そしてそれを着る事によって、大人の気分を味わう。

「チア・マミには皆いつまでも子供なの! オムツを替えたんだからね」
「チア・マミは僕にミルクをくれたの?」  少し年長のアルフレードがわざと聞いてくる。
「あら、アルフレードは私よりも牛から直接飲むのが好きだったわよ」と答えると子供達は全員で大笑い。
「最後に学校に着いた人が牛の子だー!!!」

一斉に駆け出しながらアルフレードをからかう。私が子供の時もこうして遊んでいた。「最後の人は神父さんの奥さん」なんて言いながら意味もなく笑っていた。どんな町でも、どんな時代でも子供は自分達の遊びを見つける。晴天の夏の朝、そんな事を考えていた。

3月3日は日本ではお雛祭り。このホテルでも小さな年代物の雛人形を飾るのが毎年恒例である。日本からはほど遠い、他に日本人が住んでいないような町で暮らしながらも、両親は日本の行事を大切にしている。
ここには桃の花はないけれど、手入れされた小さな花壇から毎年小さな花を摘んでは飾る。どんなに望郷を誘われても、一枝の花よりも素晴らしいものがこの地にはあった。

「ねぇ、マーマ。あの桃の花…という歌詞の歌があるよね、あれってお雛様の歌なの? この間来た小さな女の子達が歌っていたのを聞いて思い出したのだけど、昔歌ってくれたよね。歌詞、覚えている?」

「マーマが小さな頃はね、歌っていたわよ。もう忘れてしまったけれどね。確か、“明かりをつけましょぼんぼりに、お花をあげましょ桃の花…”と歌ったっけね。懐かしいなぁ、見たいねぇ桃の花」  母のため息が長いブラジルの生活の重みを感じさせる。母は帰りたいのではないのか、父や私達が母をこの地に留めているのではないのか。今まで思いもしなかった母の心情を垣間見た気がして後ろめたいような、哀しいような気分になった。

「マーマ、日本に帰りたくない? ここにいて幸せなの?」  背中にあたる夕日が肌をジリジリと焼いていく。カラッとした空気は汗が出るそばから乾かすので私の小麦色の肌はいつもジリジリと音を立てるほど乾いていた。傾いた夏の夕日は、私と母の影を長く伸ばして赤土の床に浮かび上がらせている。それはやはりこの地でしか見られないものだろう。

「マミ、マーマ若い頃にね、とても若い頃にパイと2人で船に乗ってブラジルに来たの。多くの人は夢を見て苦しい船旅の中、希望だけを持っていた。私達2人もね、大きな夢を持って来たのよ。そして大変だった分だけ、パイは私に幸せをくれた。私は誰一人として子供達を失わなかったし、皆健康に育ってくれた。子供にちゃんと食べ物を与えてあげられる事が幸せだなんて、きっと今の人には考えも及ばないかもしれない。けれどね、そんな些細な事が幸せなのよ」

母の手は大きい。そして荒れている。その手を母は誇らしげに夕日にかざして見せた。
「マミ、マーマはどんなにお金持ちの人にも負けないくらい贅沢な暮らしをしているの。それはパイやあなた達のおかげなのよ。とても幸せだよ」
 
私がまだ小さな頃から母はいつも笑っていた。自分の手で花梅を漬け、古いレコードをかけていた。子供達に囲まれ古い本を紐解く母の姿は周りにいるブラジル人の他の女性と違う静けさを漂わせていたものだった。

「マーマ、桃の花見たい?」 出来るはずもないのに、思わず言葉が出ていた。「桃の花はね、私の胸の中に、心のアルバムの中にあるから大丈夫よ。幼いあなた達を見ながら、いつも桃の花を重ねていたからね」 「マーマ、私を生んでくれてありがとう、ね」

微笑む母の横顔が、そのままの角度で私の心の中のアルバムにそっと貼り付けられた。この写真だけは決して色褪せる事はないだろう。

「起きてケイジ! いくらブラジルには時差があるからってマナウスとここでは時差はないはずでしょ! もう8時よ」  久しぶりに帰ってきた兄に私は朝からじゃれついていた。この二番目に年長の兄は兄弟の中で一番の美男であるのにまだ独身である。私はユーモアたっぷりのこの兄が一番のお気に入りだった。だから兄が帰省する度に独身の兄に小言を言う父を時々恨めしげな目で見てしまう。兄に奥さんができたら意地悪してしまうかもしれない。

「マミは日毎煩くなるな。パイもママイもよくこんなに煩いのと一緒で平気だなと思うよ」
私は仁王立ちで兄を睨み付ける。「私は可愛い末っ子ですからね、これは特権なの。聞いてくれたら教えてあげたのに」
「教えてくれていたらお前が嫁に行ってからしか帰ってこなかったのに…」  
ため息と共にケイジがベッドから抜け出す。
  
これは兄が帰省してからマナウスに帰るまで毎日我が家で繰り返される一種の儀式のようなもので、お互いにこうしてじゃれ合っているのである。 私達6人兄弟は年に数回会えれば良い方で、全員が一緒に集まったのは4年前にすぐ上の姉が結婚した時だった。あれから時々思い出したように立ち寄る兄弟達と個々にしか会っていない。
 
昔は皆裸足でこの辺を走り回っていた。時間は駆け足で通り過ぎてゆき、兄や姉はそれぞれ都会へと自分の道を求めてこの温かい巣を飛び立って行った鳥のようなものである。私だけが未だに飛び立てずに過去と同じ時を刻むこの町に縛られている。まるで、飛び方を学べないヒナのように。

「マミ、久しぶりに河を見に行かないか。子供の頃、よくパイと一緒に行ったよな。時間におわれると人は心の余裕がなくなるからな」
「ケイジなんて永遠に心の余裕の中で生きているんじゃない?」
「そうも言っていられないさ」

苦笑する兄の顔に複雑な思いを読み取り、不安を誘う。この兄は、いつもポジティブに考える主義の人なのだった。

「もしかしてケイジもパイとマーマの事を話したいの?」
「まさか。パイはオンサ(豹)でもやっつけちゃうくらい元気だよ。この頃カッサ(狩り)には行っていないのか?」
「マーマが嫌がるからね。それに猿なんて食べたくもないわ」
「共食いだものな」

ケイジは大笑いしながらキッチンへと去って行く。 その後ろ姿を見つめながら、少しだけ不安が胸をよぎった。
  
ジ・パラナに近いマシャード河は、マデイラ河の支流の赤茶色の河である。その辺に住む人々はこの河の恵みを受け、その神秘的な流れに生かされている、そんな風に感じさせる河だ。そこに暮らす人々は河で魚を捕り、その水で洗濯をし、体を洗い、そしてその水を飲む。大きな樽に水を溜めて一晩寝かせると翌日には半透明な水になる。その水をフィルターでこすと、栄養たっぷりの飲料水となるのである。まさに恵みの河であった。

ブラジルの河にはピラニアという獰猛な魚がいて、通常その魚の方が有名であるが、アマゾン河支流のこの河にもピラニアよりも恐れられているカンジルという魚が生息している。小さなナマズの仲間であるその魚は、動物や魚、人間の体に穴を開け、そこから体内へと突き進みアッという間に体の至るところから飛び出し、やがて皮だけにしてしまう。本当に恐ろしい魚である。

現地の人はその魚のいない正確な場所がわかるのか、平気で泳いでいる。私は、小さな頃から両親の目を盗んで泳いでいたが、母はこの魚をとても怖がった。

目の前に流れるマシャード河を見つめながら、幼い日に見たボートの沈没事故の事を思い出していた。助けたくても助けられず、ただ助けを求める人を見ているしかない哀しみ、そしてもどかしさ。他のボートに飛び乗る人達、そして絶望的な目の色。
 
この河は、人々に恵みをもたらせるだけではなく、命をも奪って行く。その晩父は子供達を目の前に、涙しながら友の死を報告していた。そして自然の摂理という人間の力の及ばない世界がある事もこの時に知ったのである。それは学ぶ私達にとっても教える父にとってもとても哀しい授業となった。
 
「トーマに逢った」  いきなり現実に引き戻すようにケイジが呟いた。 意味が判らず呆然と立ちすくむ私に兄はもう一度囁いた。 「トーマに、逢った」  どこか乾いた口調だった。言いにくい事を言う時のケイジのクセだった。 「そう…」  私は視線を落として水面を見つめていた。 「お前の事を聞かれた」  哀しみとも、感動とも違う不思議な感情が胸を支配する。
「ごめん。僕は嘘をついた。お前が結婚したと伝えた」   「そう…」  胸が痛かった。兄の私への愛情とトーマに嘘をついた事への罪悪感を自分の事のように感じていた。

「トーマは結婚していたの?」  覗きこむように視線を上げる。微笑を絶やさずにするためには下を向いてはいけなかった。下を向いたら涙がこぼれる。 「いや…」  兄は下を向いていた。私の顔を直視出来ないでいるみたいだった。
 
(2001/9/19)

    
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