[らいらっく文学賞 2001]  

ジ・パラナ・ホテル(4)


「トーマはあれから日本の大学へ戻ってそれからアメリカへ渡ったそうだよ。そして今はマナウスにいる」 「薬草の研究を続けているのね。この間ホテルに来た客がトーマの紹介だと言っていたわ。アメリカから来て薬草の研究をしている人達だったわ」   「マナウスに来ないか、マミ」

ケイジの瞳には慈愛が満ちていた。私はその瞳を見つめ返しハッキリとした口調で言っていた。「行かないわ、ケイジ。トーマは過去の人なの。どんなに特別な感情を持っていたとしても8年前に私達の道は別れてしまったわ。今の私はあの頃の私とは違うし、きっと彼も変わったでしょうから」 ケイジは何も言わなかった。ただ河の流れを見つめていた。私達はしばし時の流れも忘れたまま、河の流れだけを見つめていた。

マシャード河は昔から変わらぬ姿でそこにあった。これからも変わらずそこにあるだろう。人々の哀しみや喜び、不幸や幸せをその流れのままに呑みこんでゆくのだろう。ケイジが私と向き合う場所としてここを選んだ理由は、言葉がなくても理解できる。全てを、マデイラ河に流してしまうのだ。過去も、哀しみも、戻らないもの全てを。

「マミ! 僕が大好きなイチゴを1人で全部食っちまったってママイが言っていたぞ! どう責任とってくれるんだ」  ケイジがリビングから大声で話しかけてくる。

「大袈裟ねぇ。いいじゃない、イチゴくらい」
「僕はイチゴの色も見られなかったんだぞ!」  大好物のイチゴを全部食べられたケイジは世界が終わってしまったような絶望的な悲鳴をあげている。 「赤かったわよ」  私は平然と言ってやった。ケイジは昔からこうなのだ。イチゴに目がなく、自分の分がないといつまでもダダをこねている。 「言ったなぁ!」  追いかけてくるケイジを振り切って、私は2階の自分の部屋へと逃げ込んだ。本当はこんな日々がずっと続く事を夢見ている。

ケイジは明日マナウスに帰ってしまう。そして今日はリオから3人の客が到着する事になっている。久しぶりの日本人の客である。

日本企業の駐在員としてブラジルに来ていた義兄と結婚して6年経つ一番上の姉のマキからの紹介である。私と同じ年頃の娘のいるこの夫婦はブラジルの奥地に行くまでの勇気はないが自然の残る町で過ごしたいという希望で観光地マナウスではなく今回はこのホテルに滞在する事になっている。私は同じ年代の若い日本人の女性は初めてなので少し緊張していた。

いつもは若い男性のグループか又は仕事関係で立ち寄る人達である。その中に女性は少ない。ロンドニア州ポルト・ヴェーリョの街から400キロの地点は女性に適した立地とは言えなかった。
  
俄(にわ)かに外が騒がしくなったのでベランダから覗いて見ると白いワンピース姿の女性が視界をよぎった。小麦色の肌は私とは変わらないが、笑い声がどこか華やかである。私は眩しくなって目を細めた。綺麗に引かれたピンクの紅が私とは違う世界の住人である事を無言のうちに語っていた。

「マミ、お客様が到着したわよ」  母の声が階下で響く。私は少し気後れしながらもゆっくりと階段を降りて行った。
「マキのお友達の篠原さん夫妻とお嬢さんの由希子さんよ」
「はじめまして、マミです」    私は笑顔を浮かべて手を差し出した。
「篠原です、マキさんにはいつもお世話になっています」  ご主人の方から先に手を握り返してきた。 「妻の美代子です」  続いて奥さんが挨拶をする。 「由希子よ、はじめまして」  華やかな笑顔を頬に浮かべてはいるものの、どこか見えない壁を作って由希子が挨拶をした。

賑やかに雑談をしながらリビングへと移動する一行を横目で見送って、私はキッチンへと急いだ。リオは暑いかもしれない、けれどこの町はもっと暑いはずだった。熱をはね返す白いワンピースに身を包んでいるとはいえ、日中の日差しはまだまだ堪(こた)えるはずである。冷たいコーラを運んで行こうと考えていた。

トレイにのせた冷えたコーラを持ってリビングへ入った私を由希子は値踏みするような視線で出迎えた。そんな瞳を見るのは初めての経験だ。美しい顔には綺麗に化粧が施され、人を見下す目だけが異様に光っていた。私は怯(おび)えを隠すように真っ直ぐと見つめ返した。犬でも猫でも、たとえ猿でも先に視線を外した方が負けである。人間にも同じ事が通用するはずだった。
やがて視線を外した由希子は「部屋へ行きたいわ」と言って先に立ってリビングを出て行った。猿に例えたのは悪かったかもしれない。

篠原ファミリーのホテルでの滞在は1週間と決まっていた。夫妻は両親とマデイラ河へのドライブに出かけて行った。朝早く出かけて行ったけれど帰りは遅くなるはずだった。そういう理由で私と由希子だけがホテルに残される事になってしまった。由希子の視線を思い出すとあまり気持ちの良いものではなかったが、放っておくわけにもいかなかった。 リビングでは由希子が1人で紅茶を飲んでいる。

「町を見に行かない?」  なるべく自然に声をかけた。
「こんな田舎に見る所があるとも思わないけど」  由希子はあくまでも冷たい。
「何もないわよ。何もない風景を見に行かない?」
「それってバカみたいじゃない? 他にやる事ないの?」
「あるわよ。ハンモックで昼寝したり、木に登って果物を食べたり、流れる雲を眺めたりね。近くの学校に行って子供の面倒もみられるわよ」
「それって暇人のする事じゃないの。買い物に行こうにもショッピング・センターもないし、カフェで楽しい気のきいた会話も出来ない、あるのは時間だけ」
「それって大切な事ではないの? 少しでいいからハンモックで揺られてみましょうよ」
有無を言わせずに私は由希子の手を引きながらもう歩き出していた。

由希子は父のハンモックで揺られながら、少しの間考え込んでいる。マンゴーの木の陰になって直射日光をさけながら、私は自分のハンモックにもぐりこみ、そんな由希子の顔を見つめる。
「由希子は、ブラジルが嫌いなの?」  嫌いと答えようとして、一瞬口籠(ご)もる気配がする。
「…わからないの。この国は私の日常を夢の中のように感じさせる。今まで私は何かに追われ、いつも急いでいた気がするの。なのに、気負っていた自分がちっぽけな存在に感じさせられる時がある」深いため息を一つ。

「いつも何かに追われているのに、本当に自分が何を望んでいるのか判らない私の日常が、この国では何でもない事のように思える。それでもやはり、何かに追われているのは変わらなくて、でも私は何も出来ない」

由希子という日本人女性の華やかな笑顔の裏に隠された苦悩を、垣間見た気がした。私は少し体を起こし、彼女の顔を覗きこむ。そこには先程までの気取った女性はいなかった。「私はね、この町で生まれ、そして育ったの。何もない町で、見ての通りにあるのは時間が止まったような永遠とも思える時の刻み。ただ、毎日を生きている。自分なりに躓(つまず)きながらも、河の流れのように、そして雲の流れのように。人間の人生って本当はそんな物だと思うの。誰と比べる事もない、自分が幸せでいればそれでいいのじゃないかな」   「…」  何かを言い出したいけれど言い出せずにいるようだった。

「私ね、好きな人がいるの。ブラジル人なの。でもね、彼は私とは違う世界で生きる人のような気がするのね、明るくていつも楽しそうで。彼を見ていると私は自分が自分らしくいられる気がする。それが全て錯覚だったらどうしようってそればかり考える。自分と違うから引かれるのかもしれないと」    「そうかもしれないわね。けれど無理をする事はないと思うわ。自然でいいと思う。あなたは傷つくのが怖くて自分に壁を作っている気がするわ」   「そうね…」  1週間の時間に私達は何日もこうして語り合った。そこには、壁などない世界があった。そして私は友を得た。
  
5月の雨の朝、突然の訪問者にみまわれた。それは、私がこの数年夢見ながらも、いつしか諦めていた再会の日となった。 トーマは、相変わらずはにかんだような微笑を浮かべ、けれど肌は私と同じような褐色となり少しガッシリとしていた。出迎えに出た父は一瞬口篭もり、私へと心配そうな顔を向けてくる。私は、冷静な顔を保つ事がどれだけ大変な事かを改めて感じていた。

「お久しぶりです。皆さんお変わりないですか?」
「当麻君、よく来たね。いつブラジルへ?」  この間のケイジとの会話の事を何もしらない父は突然の訪問に驚きながらも懐かしげな瞳で逞しくなったトーマを見つめている。トーマは宿泊名簿に“当麻正行”とフルネームを日本語で書いた。「サンもお元気そうでなによりです。お母さんもマミも、何も変わらないな」

本当に懐かしそうだった。この町同様に、私達も時折思い出し、その時しか存在しない、時の彼方に忘れ去られたオアシスのようなものだろう。 「今回の訪問は僕にとって非常に意味のあるものなのです。今まで時間がかかってしまったけれど、やっと自分というものを見つける事が出来たと思う。それまでは、この地に足を向ける事は出来なかった。不実なようですが、許して欲しい。マミ、話があるんだ」

とんでもない話の展開に私は動揺していた。両親の前でどうどうと名指しで呼ばれるとは思っていなかった。 「まぁまぁ、先に部屋に行ってシャワーを浴びていらっしゃい。疲れたでしょう? 話はそれからでも、ね」  母が緊張したあたりの雰囲気を和らげようとしているのが判る。そんな気遣いが、今は嬉しい。  父は腕を組んだまま、何も言わなかった。

「不躾をお許し下さい。緊張しているんですね、何だか早急過ぎました」 素直に頭を下げ、案内も請わずにトーマは昔使っていた部屋へと歩いていく。私は、父の沈黙が気に掛かりながらもその場に留まるのが怖かった。逃げ出すように自分の部屋へと駆け出していた。いつもはかけない部屋の鍵をきっちりと閉めて、1人で震えていた。  なぜ、今になってトーマは戻ってきたのだろう。
 
昼食の後、黙り込んだままの父を残して、私はトーマと共に庭の片隅にある小さな丸テーブルを囲んでいた。逃げるつもりはないし、逃げる事も出来ない。

私は俯(うつむ)いたまま、トーマの言葉を待っていた。
「もう何年になるかな。7年か、8年か。君はいくつになった?」
質問の意図が見えなくて、少し戸惑っている私にトーマは続ける。
「長かったよな、すまない。それでも、君と向き合って話してみたかったんだ」
「あなたは何をしにここに来たの? 昔の思い出を語り合うため?」
「君はどう思う?」
「昔は、もっとストレートな人だったよね、シャイだったけれど自分の気持ちをきちんと言葉にしていた。今みたいな話のそらし方はしなかったわ」
「そうかもしれない…」  トーマは少し考え込んでいた。
「何しに来たの?」再度聞いてみた。
「君に逢いにきた」
真っ直ぐと見つめ返してくる視線が痛くて、私は側に置いてあったコーヒー・ポットへと手を伸ばす。ほとんど手付かずのカップに溢れるほどコーヒーを注ぎ足しながら手の震えを悟られないようにと考えていた。
「私も、逢いたかったわ」  なにげない風を装いながら微笑む。
「君のお兄さんから電話があったんだ。嘘をついて悪かったって」    「うそ…」
「嘘じゃない。僕は本当に君が好きで、でもあのままではいけなかった。僕達は若すぎて、僕には何もなかった」  

トーマの視線は父のハンモックの隣にかかるピンクのハンモックへと移っていた。何かを見つめながら目を細めるクセは、昔のままだった。
「私は何も望んではいなかったし、何かをして欲しいとも思っていなかったわ」
「それは知っている」  彼の声に強いものを感じて、思わず視線を上げる。
「私は、過去を振り返りたくはないの。あなたにはあなたの生き方があるし、私には私の生き方がある。今更昔の話を蒸し返してもどうにもならないわ」
「またやりなおせないか。初めからやり直せないか」
切実に響くトーマの言葉に、私は理性を失いそうになった。けれど、私はもうあの頃の私じゃない。十七歳の何も知らない女の子ではなくなっている。

「あなたが何を求めているのか、私には判らない。けれどたとえ何であっても、私には応えられないと思う。それほど、私達の世界は違ってしまっているの」  私の声は乾いていた。けれど現実の実感無しに口から出る言葉に、どんな感情を込めろというのだろう。

(2001/9/19)
  
   
ジ・パラナ・ホテル(5) >>