[らいらっく文学賞 2001]  

ジ・パラナ・ホテル(5完)


「僕とマナウスに来てくれないか」   私の手を握ってくるトーマを振り切れずに、そのまま彼の目を見つめていた。 「私は、どこにも行かない」   そう呟いて椅子を引き、私は後ろを振り返らずにホテルの方へと歩くのが精一杯だった。後悔ではなく、何か苦いものが口の中に残っているような気がした。 

朝のテーブルには母の姿しかなかった。訝(いぶか)しげに空いたままの父の椅子に視線を送る私に母は「トーマを送って行ったのよ」とだけ応えた。それは思ってもみない展開だった。なぜ、トーマは何も言わずに帰ってしまったのだろう。

「昨日、あれからどうしたの? ごめんね、部屋に閉じこもってしまって」 私は怯えていたのだ。あれ以上トーマと一緒にいるのが怖かった。
「何もなかったわよ。トーマがいきなり“マミを僕にください”と言った以外にはね。その後は彼のこの8年間の暮らしや経験談だけ」

「マミを僕にください、か。今更そんな事言われてもね、今の私にはそんな気は全然ないのに」 自分で聞く事の出来なかった本当に欲しかった言葉は、私のいない席で語られていたのだ。

「ねぇマーマ、人の人生って流れる河のようだね。大きな幅のところもあれば、細いところもある。激流もあれば時には優しい緩やかな流れのところもある、そしてその全ての流れを終えた時、広大な海へと流れ着く。そして河は無になるの」

私の人生の中で、河のたとえは一番判りやすい。幼い頃から河の恵みを受け、そして河の流れを見て育った。私にとって河とは、海であり、そして命の源でもあった。河に生かされ、河に死ぬ人達を見てきた。

「パイはホテルをやめるつもりでいるよ。ホテルがあるからマミはここから離れられないのだと思っているみたいだね」 母の目は、まるで私を試しているようだった。「私はホテルのためにどこにも行かないのではなく、どこにも行きたくないからホテルに留まるの。パイは、どうしてそんなに哀しい事を言うのだろう」

「トーマが言っていた。マミは自分で選んだって。このホテルはいつまでも変わらずに人々の心を癒(いや)すべきだってね。トーマもそれを願い、形は違うけれど薬草の研究という自分の道を極めようと思うって」
   
「彼はいつも言っていたわ、このホテルの赤い土の床に裸足で触れるだけで、心が癒され疲れが取れていくって。人を癒すのは薬だけではなく、そんな何もないようでいて懐かしさを感じさせる何かだと。だから私はこのホテルを守っていきたいし、自分なりの生き方を探していこうと思ったの」

「この間の篠原さんのお嬢さんみたいに?」 母が悪戯を見つかった子供みたいな共犯者の瞳を投げかけてきた。

「気づいていたの?」

この母は言わないでいる事でもいつもすぐ気づいてしまう。私はある意味ではそれを知っていたのかもしれない。
  
「篠原さんにマキが相談されてね、マミに内緒で逢わせてみてくれないかって言われていたのよ。自然の中で自然に生きているマミと逢わせれば何か変わるかもしれないと思ってね」

「私は何もしていないのよ。由希子は自分で考え、自分で答えを出したの」
「都会で生きていると、人は自分の心に素直になる事も忘れてしまうのね。だから私はパイとこの田舎で暮らせた事は幸せだと思っているわ」母が言った。

「時には立ち止まっても良いと思うの。毎日に流されるのでなく、ただ自分が今何をしたいのか、少し見つめるだけでいいのだと。それが自然だと思うわ」

「あなたも素直に生きてね、マミ」  そう言う母の顔はいつになく真剣だった。

トーマが再び私の人生からいなくなってもう3ケ月が過ぎた。父はトーマとの間にどんな話がなされたのかを一言も言わず、ただ毎日ハンモックに揺られている。母も日常の生活に戻っていた。 私だけが何かをやり残したような不思議な感覚に呑まれ、落ち着かない毎日を過ごしていた。けれどこのホテルを離れたくないという気持ちは嘘ではなかった。このホテルは私が見つけた、私の生きかたなのだ。

その間に、私は由希子からの手紙を受け取っていた。漢字を少なくと、彼女なりの気遣いを見せた手紙だった。
  
“ブラジルで生きていく事に決めました。語学学校でポルトガル語を勉強しながら、小さな子供達に日本語を教えています。人と同じ人生でなく、自分の人生というものを改めて考えながら、今の自分がすべき事だけでなく、今の自分に出来る事というのを探しています。人を愛するという事は許す事でもあると、そして相手をありのまま受け入れる事でもあると、今は深く感じています。あなたに逢えて本当に良かった。また裸足でかけっこをしながら、ハンモックに揺られたいわ。次の休みにはおじゃまします。 由希子”

水色の便箋にしたためられた手紙は、白いワンピースの由希子ではなくジーパンにポニーテイルの由希子の写真と共に届けられた。由希子は褐色の肌をしたブラジル人の男性と共に微笑んでいた。それは自然な笑顔だった。

7月は冬休みもあったせいでこのホテルも忙しかった。私は木登りをしたり、庭のフルーツを自分で選びそのまま食べるなど、都会では出来ない田舎だからこそ出来る遊びで滞在客と共に興じていた。父は、そんな私をいつも黙って見ていた。

お金で買えない幸せがあるのだと、時の止まったようなこのホテルは感じさせる。それが、私の誇りだった。

トーマのいない私の人生。たった一月(ひとつき)だけを一緒に過ごし、一時(ひととき)の再会の後に再び私の人生から消えてしまった人を想いながらこれからずっと過ごす事は、日毎私を疲れさせていた。トーマに出会うまでの17年間、私は1人でも幸せだった。トーマのいない8年間も、だから同じように生きてきた。どんなに辛くても、それまで私は生きてこられたのだから、きっとこれからも生きていける。

そんな私を見て母は「自分が幸せでなくて、どうして人を幸せに出来るの」と言った。それでも私はもう選んでしまった。トーマにはっきりとマナウスへは行かないと言ってしまっていた。もう後戻りは出来ない。

私はいつもの明るさを失っていたのだろう。父がホテルの増築を言い出した。

その増築工事は半年間も続き、その間ホテルの宿泊客には影響はなかったものの、部屋数を増やし、住宅部分を広くする必要は感じないでいた。

兄弟全員が久しぶりに揃ったその年のクリスマスには、ホテルは古い佇まいを残したまま、住居と共に広くなっていた。兄や姉も、両親がこのホテルをずっと続けていきたい気持ちに負けたのだろう、もう何も言わなかった。

「パパイはどうしてこの場所にホテルを建てようと思ったの?」
一番上の姉が、なぜか今まで誰も聞いてみた事のないその理由を問うていた。
「そう言えば、一度も聞いてみた事なかったよね」
三男のマサオが言った。
「そうだな、ママイからもパパイからも聞いた事なかったね」 
長男のイチローが同調していた。

父は少し困ったような顔をして、母は可笑しそうに微笑んでいた。

「このホテルにはな、先代がいたんだよ。もうおじいさんのイタリア人で、1人でのんびりここでホテルをやっていた。パパイ達はこの近くの町の農場に来て仕事をしながら自分達の土地を確保しようと考えていた。けど、ここでそのおじいさんに出会って、このホテルで過ごしてみて、離れられなくなったんだ。この町の止まったような時間の流れと、このホテルの雰囲気。そのイタリアのおじいさんがホテルを手放すと聞いて、もう夢中で手にいれた。それだけの事だよ」
  
「このホテルを始めて最初の年にイチローが生まれ、このホテルの庭を走り回る子供達を見ながら私達は今日まで生きてきた。パパイと共にここで暮らせて本当に幸せだったわ」
  
私達が幼い頃、庭の木の下で母はよく歌っていた。そして優しい瞳で子供達を見つめていた。人間らしい生活は、贅沢な暮らしの中ではなく、そんな一時を持てる事なのだと、きっと私はあの頃から感じていたのかもしれない。
  
「明日はこのホテルでの37回目のクリスマス・イヴだ。全員が揃ってくれて、本当に嬉しいよ」 父は本当に嬉しそうに言い、リビングのソファーで眠ってしまった孫達へと視線を移す。

「この子達にもこの悠久の時を過ごせる場所を残してあげないとな」とだけ呟き、大きなあくびをした。 私はケイジに誘われるまま、庭の小さなテーブルへと歩いて行った。

「あれからトーマからの連絡はあるのか」
「何もないわよ。言ったじゃない、もう終わった事だって」
「お前はそれでいいのか。マナウスへ行くなら僕がホテルをみるよ」
「マナウスへは行かない。それはトーマにも言ったわ。私はここで自分に出来る事を探していきたいの。あの頃のトーマは、そんな私が好きだと言ったわ」
「後悔はしないのか」

後悔なら、もう何度もしていた。けれど、どうしてこの町を離れて暮らしていけるのだろう。この町は確かにいつも忘れられる、そして時には思い出したように見つけられる運命なのだ。けれど、この町の時の刻み方が、私は好きだった。

「マミはトーマの話になるとハリネズミみたいになるな」 ケイジが笑った。
「ケイジはイチゴを分ける話になると牛の手みたいに絶対に開かないじゃない、それってガメツイという意味よ。人の欠点ばかりを言えないわよ」 
「お前は犬のように記憶力がいいな」
「ケイジは猫のようにすぐ忘れるじゃない」
「無理はするなよ。トーマはまだお前を待っているみたいだからな」

胸の痛くなる言葉を残して、兄弟の団欒が続くリビングへとケイジは1人で戻っていった。私はハンモックに揺られながら1人思い出の渦に飲まれていった。

クリスマスの朝、まだ6時だというのにリビングが騒がしい。子供達が待ちきれずに、プレゼントを開封しているようだ。

私は父の呼ぶ声に応えながら階下へと急いでいた。年をとると早起きになるのか、父は朝から元気だった。声が弾んでいる。リビングに並ぶソファーで家族全員がくつろいでいるので最初驚いたが、私の視線はある一点で固まっていた。 見なれた横顔、サラサラの髪、よく通る声。絶対に見間違える事のない人のものだった。立ち止まっている私に気づき目を細める。彼のクセだ。

「おはよう」  眩しい笑顔がそこに広がった。
「おはよう…」 
懐かしくてたまらない笑顔が私を見つめる。マナウスへでも、地の果てでも、彼と共になら怖くない。ただ、帰ってきてくれたのが嬉しかった。たとえ一時でも、彼と過ごす時間が大切なのだ。

「サンタクロースにさらわれてね、荷物ごと夜中に辿り着いたんだ」
「パパイはサンタクロースにしては少し小さいけれどね」母が笑う。
「ジャパニーズ・サンタクロースだよ」父が胸をそらす。

「前に来た時から準備して、やっと仕事が落ち着いたんだ。薬草の研究をしながら、この悠久の土地で人を癒す研究がしたい。その前に君に僕の心を癒してほしい。8年も掛かってやり遂げた大仕事だからね」

「お前の家族のための増築は済んでいるよ」  父が微笑む。もう何ケ月も前から父はトーマの共犯者なのである。そして母も、兄弟も共犯者だった。

「僕は何度もマナウスへは通わなくてはならないけれど、8年前から決めていたんだ、僕の家族はこの町で暮らしていくんだと」
「私が他の人と結婚するとは考えなかったの?」
「考えたさ。でも男には守らなくてはならないケジメがある。全て賭けだった」

涙で視界がぼやけてきたが、泣きたくはない。一瞬でも長く、トーマの瞳を見つめていたかった。

私は一歩一歩を確かめるように、トーマの元へと近づいていった。

ブラジル北部のロンドニア州にジ・パラナという小さな町がある。そこにはゆっくりとした時が流れ、訪れる人々の心を穏やかにする。

何もないその町には1軒の日本人の経営するホテルがある。古びた青いハンモックの隣に色褪せたピンクのハンモックが吊るされ、側には真新しいグリーンのハンモックが並び、今日も持ち主を待っている。希望すれば宿泊客にもハンモックを吊るしてくれる。

夏の日差しの暑い日には木陰で昼寝をするも良し、本を読むのも最高だ。赤い土の床を裸足で歩き、庭に実る果実を食べる。何もしない事で全てをしている、そんな独自の時間の流れを持つ小さなホテルが、今日もあなたを待っている。

町の人達はこのホテルを、町の名の通り“ジ・パラナ・ホテル”と呼ぶ。
    
(了)

                                                                                                             
(2001/9/19)  


文化評論コーナー】【ホーム