ブラジルにおける日本進出企業の変遷

田 中  信 (ブラジル日本商工会議所 会頭)


 

ブラジルにおける日本企業は要約次のような変遷を経てきた。

(1) 日本企業のブラジル進出の第一波は1950年代、クビチェック大統領の「50年を5年で」の工業化推進政策に応じ、銀行、商社、紡績、農業機械など数十社が進出した。トヨタ自動車、イシブラス(石川島播磨重工―南米一の造船所であったが撤退した)の進出や日本とブラジルの ナショナル・プロジェクトであるウジミナス製鉄(日本側は鉄鋼ミル、商社などの連合)などもこの時代であった。

(2) 日本企業進出の第二波は1960年代後半から1970年代前半にかけて、「ブラジル経済の奇跡」といわれた軍事政権の時代。推計約500社の日本企業が文字どおりブラジルに殺到した。各業界の主だった企業はこの時代にほとんど出揃った。
紙パルプ資源開発プロジェクト(セニブラ)、セラード農業開発プロジェクト(カンポ)、アマゾン・アルミ製錬プロジェクト(アルブラス、アルノルテ)、カラジャス鉄鉱山開発プロジェクトなどのナショナル・プロジェクトもこの時代で、ブラジル側の主体は、すべて当時国営企業であったリオドセ社である。
1973年および79年の石油ショックは、ブラジル経済の高成長維持を困難にし、インフレ昂進、財政赤字増加、国際収支悪化を招き、対外債務を増加させた。

(3) 1980年代、90年代は失われた20年
1980年代はブラジルの対外債務危機。1990年代はバブル崩壊による日本経済長期停滞。この間、推計では約200社の日本企業がブラジルから撤退した。

(4) 20世紀末〜21世紀はじめ
「レアルプラン」によるブラジル経済安定、BRICsの一員としての将来性などに注目、日本企業のブラジル向け投資に動意が見られるようになった。1960〜70年代に比し未だ小さいが、第三の波を形成しつつある。
    

最近の若干の具体例を挙げれば、ブラジル進出の歴史はそれぞれ50年、30年と古いトヨタ、ホンダの2社が20世紀末にほぼ相前後して乗用車生産を開始した。両社とも未だ生産規模は小さいが、将来を見越して部品メーカーも逐次進出しつつある。
本年10月には、ブリッジストン・ファイヤストンが1億6,000万ドル投じたバイア州カマサリのタイヤ工場が稼動することになっている。
   
1970年代に日本とブラジルの合弁のナショナル・プロジェクトとして開始し、90年代に民営化されたパルプのセニブラ社を、王子製紙、伊藤忠などの日本グループがブラジル側リオドセ社の持分を買収して100%日本企業とした。
国営企業時代から日本と関係深い世界最大の鉄鉱石会社リオドセ社に三井物産が資本参加した。
さらに昨年末、三井グループはエンロンの子会社でガス配給会社7社を有するガス・パート社を2億5,000万ドルで取得し、ペトロブラスに次いで業界第2位となった。
カナダのボンバルデアル社とならんで、中小型ジェット機専門、世界第4位の航空機メーカーであるエンブラエール社の主翼生産に川崎重工業が進出参加した。
味の素は1970年代から豊富な砂糖きびを原料に、グルタミン酸、リジンなどを生産してきたが、すでに3工場に増設。さらに本年初、新工場建設を含む総額1億8,000万ドルの生産拡大計画を発表した。 
昨年末、東京海上日動火災保険は3億5,000万ドルでオランダのABNアムロ・グループに属するレアル保険の株式100%とレアル生命年金の50%を取得した。
   
(注:最近の日本企業の投資状況は、EXAME誌6月7日号、O ESTAD DE Sao Paulo紙6月5日号、VALOR紙6月12日号などによる)

「戦略の失敗は戦術では回復出来ず、戦術の失敗は戦闘では回復出来ない」という言葉がある。日本企業のブラジル向け投資第三の波は、大きさという点では第二の波にまだ及ばないが、目的、戦略が明確である点が特徴的である。

ブラジル日本商工会議所「日本進出企業の現地化調査」(2001年10月)によれば、日本からの進出企業はマネージャーまでは現地化が進展し、半数以上を現地採用者で占める企業が、回答総数63社中92.3%を占めた。  

これに反し、役員は日本からの派遣駐在員が半数以上を占める企業が83.9%で、現地採用者が過半数を占める企業は16.1%にすぎない。 しかし、約30年前の第二の波の時代研修生としてブラジルに派遣され、ポルトガル語の研修を受けた人材が、今日では代表者として活躍するケースも見られるようになった。  また、当時父親のブラジル勤務に同行してブラジルに来て、当地の日本人学校、アメリカン・スクールなどで学んだ駐在員二世が、今や若手ないしは中堅社員として進出企業で活躍するケースも見られるようになった。第二の波時代に日本企業は先を争ってブラジルに殺到したが、ポルトガル語の出来る人材はもちろんのこと、特に代表者クラスには海外経験ある人材自体が不足していた。当時と比較すると、今日のブラジル要員層は比較にならないほど厚くなっている。

日本経済は1990年代バブル崩壊による長期不況の継続により、企業は厳しいリストラの洗礼を受けた。ブラジル現地法人の社長がメルコスル統括、中南米統括などを兼ねる傾向も出てきた。容赦なき世界経済のグローバル化の進行により、海外現地法人の業務も複雑多岐にわたるようになり、現法運営も一段と厳しさを増している。本社と現地法人間の人的往来も増加している。分かりにくいブラジル現地事情に直接触れるという意味で、日本からの出張はプラスが多いと思われるが、現地法人トップの本社への出張も増加傾向にある。日本とブラジル間は、飛行および待ち時間など合計して実質片道約30時間を要するが、暦上は時差の関係により、直行往復するだけで5日間を費やす。本社各部門との意思疎通は必要であるが、方面軍司令官が激戦の第一線を離れて、年数回大本営との連絡に往復せねばならないというのは検討を要する問題ではないかと思われる。

(本稿は全て個人的見解に基づくものである)
   

  (社)日本ブラジル中央協会発行 会員向け隔月刊誌
『ブラジル特報』 2006年7月号掲載



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