日本との新しい協調の時

japan


(エリエゼル・バチスタ氏寄稿 ‐
Gazeta Mercantil紙12月29、30日記事抄訳)


2000年1月14日
日本アマゾンアルミニウム

         
1960年代に始まった、日伯経済交流の真実の歴史を知るものはごく少ない。それは一つには、当時のリオ・ドセ社(CVRD)の業績が相当悪かったということにも原因があるだろう。

50年代の終わりより、CVRDはその将来について甚だ不安定な時期を迎えることになった。Vitoria〜Minas Gerais間鉄道再建において、必死の努力が予期以上の結果(建設費軽減)を収めたものの、製鉄技術の進歩は、(日本の)製鉄所がItabiraの豊富なヘマタイトを薄めるために(鉄分がやや低い)塊鉱(lump ore)を集めることが大きな課題となりつつあった。さらに悪いことに、Pela Macaco(またはPaul.現在はVitoria港の一部)港湾設備の非効率性及びVitoria運河の問題(注:水深)並びそれへの鉄鉱石運搬船のアクセスの問題は、ただでさえ小さい運搬船を、より積載能力の小さい運搬船へと変更することを余儀なくされていた。

これらの諸問題は、CVRDの意図する拡販主義を阻害し、鉄鉱石事業を危うくし、ひいてはCVRDそのものの存続さえ脅かす可能性を持つ重大問題であった。そして、これらの諸問題は当然の結果としてCVRDの財政状況を急速に悪化させる原因となった。これらの問題を解決し、当時台頭しつつあった、新興経済発展諸国のマーケットを開拓するということは、CVRDにとっても大きな挑戦でもあった。中でも日本は距離的にも最も遠く、CVRDにとっては販売戦略の限界ともいえる、鉄鉱石の潜在大消費国であった。

これらの諸問題をクリアーするためには、効率の良い港湾施設及び運搬船、それもただ積載量が大きいだけではなく、(例えば帰りに石油を積んで来られるバック・カーゴのような)効率の良い運搬船が必要であった。50年代の終わりまで、CVRDはその多くを、積載量10,000DWTのLiberty型のような小さな運搬船しか契約できなかった。当時の最大のbulk-carrier船はUS Steel社傘下のNavigen Corporation社所有の "Ore Chief号"で、積載量は34,000DWTであり、ベネズエラのオリノコ河からアメリカ東海岸まで鉄鉱石を輸送していた。

日本向けの初めての鉄鉱石輸出は、鉄鉱石5,000トンをバラスト代わりに積載して帰路についた商船三井(現.MOSK)のLiberty船であった。極端な情報不足、マーケッティングの重要性さえ誰も知らなかった当時にあって、日本という唯一の、CVRDにとって将来に大きな飛躍をもたらす可能性のある市場が現れたのだ。そして最初の鉄鉱石販売契約が製鉄会社と締結された。日本の製鉄会社は、ブラジル鉄鉱石の品質テストのため、すでにItabira鉱山の鉄鉱石サンプルを小さな運搬船で輸入しテストしていた。

当時、オーストラリアには既に豊富な鉄鉱石鉱床が幾つかあることが判明していたが、オーストラリア政府はなぜか鉄鉱石の輸出を許可してなかった。それが我々に幸いして、我々は日本人(経営者)の製鉄、及び将来に対する考えなどを知る機会を得ることができた。当時日本人は自国の製鉄業を再建すべく大きな努力をしていた。マッカーサーの日本占領後政策が終わって間もない時期でもあり、西側では日本の過去の軍事大国の象徴ともいえる、製鉄業界に対して大した関心は持ってなかった。こうして我々は巨大なポテンシャルを持つ鉄鉱石市場を発見したのだ。

しかし、その市場を開拓するためには、長距離輸送のコストという大きな障害を克服する必要があった。条件は厳しく全ては不可能かに見えた。最初のテスト的輸送の結果は、コスト的にペイするためには最低10万トンDWTの運搬船が必要で、それに加えて、石油のバックホール・カーゴが不可欠であることが判明した。しかし解決すべく難問は多く、当時そのように巨大な鉄鉱運搬船は1隻もなく、概略設計図さえもなく、運搬船建造のため必要な造船用の厚い鋼板さえなかった。また港での鉄鉱石のスピ―ディな積み下ろしのために、新コンセプトを導入し、双方の港の港湾設備も改善する必要があった。ブラジルでは不景気による(政府の財政引締めの結果としての)CVRDの資金不足の問題があり、海外からのプロジェクト用融資も全く望めない状況であった。しかし、我々には偉大なブラジル人、San Tiago Dantas蔵相がいた。彼は絶望的ともいえる状況にあった我々に大きな助力を与えてくれただけでなく、このプロジェクトの熱心な賛同者となってくれた。しかし未だコンセプトが不足していた。

このような状況のもと、鉄鉱石採掘、再建した鉄道を利用しての陸上輸送、新しく建設した港の設備を使用しての積荷オペレーション、到着先の同規模、同様の設備を持つ港での荷卸しオペレーション等、鉄鉱石輸出販売のための一貫ロデスチィックス・システムが想定され、幾度となくコスト・シミュレーションが繰り返された。また、日本側と長期販売契約を締結したことで、多額の融資を受けることが可能となり、その結果、資金面での問題は解決できた。そして輸送には自らの運搬船を使用することを我々は決定した(始めから終わりまで、我々の手で管理する方がベストだと考えたからだ)。日本側は前例を見ない(長期)契約を受け入れ、契約販売量の内の40%(15年間で5,000万トン)をCIF価格で契約することができた。そして、それらの結果から生まれたのがDocenave海運であり、これにより、我々は鉄鉱石輸送販売ルートのほぼ全てをコントロールすることが可能となった。さらこのプロジェクトを完結させるために、自らのマーケッティング部門を持つことになり、海外に子会社を設立することが検討された(後にマーケッティング及び海運業のコントロール・センターがドイツ・デュセルドルフに設置された)。さらに1966年にはItalize Eiseners Gmbh 社が創立され、1968年にはニューヨークに Rio Doce America 社が設置された。

状況は好転しつつあったが、国内では政界に、このプロジェクトの将来性に対して、まだ根強い不信感があり、ブラジル側、日本側双方にとっても、事業規模の大きさから、決断を取るのに計り知れない困難があった。しかし、我々にはSan Tiago Dantas蔵相という心強い味方の支援があり、また自国の製鉄業界を再建せんとする日本側の大きな信頼があった。実際問題として、CVRDが発展するか消えてしまうかの生存問題であったのだ。 CVRD社長Juracy Magalhaesにより輸出目標として打ち出されていた、年間3百万トンの目標は既に達成し、次の目標として年間6百万トン輸出が打ち出されていたが、この数字は世界的な鉄鉱石のレベルで見た場合、殆ど意味のないほど小さな数字であった。それに加えてPaul港へのアクセスである運河の浚渫工事の問題があった。この問題はCVRDの存続を脅かすほどの重大問題であった。しかし、日本との相互信頼はこれらの問題解決の礎となった。

伝統的な工業国である日本は世界的に有名な造船王国でもあった(ヨーロッパの造船会社はブラジル側の(巨大輸送船の)注文を冒険以上のもの−空想ものだと考えていた)。日本の有名で(多分世界でも最も有名で)偉大な造船設計技師、真藤恒氏は当時播磨造船所(現IHI)の所長であった。彼は融資面での援助こそ出来なかったものの、我々が望んでいた運搬船の建造と港湾設備の建設の保証を引き受けてくれた。そして当時、未だ前例のなかった、長期にわたる鉄鉱石のCIF価格(全契約量の40%)による第1回目の販売契約が日本の11社の製鉄会社と1962年4月6日締結された。20年後に、CVRDが日本側とカラジャース・プロジェクトについて協定を締結した時に、いつものように、口さかしい者たちの激しい批判を浴びたことも記憶に新しい。そして緊張した、それでも緊張の中にも信頼感に溢れた雰囲気の中で、CVRDを、単なる鉄鉱石会社から世界的な総合ロジスチィックス企業へと飛躍転換させるべく、将来を決定する協定が東京において締結されたのだ。 実際、CVRDの競合力はただ単に鉄鉱石の品質によるものではなく、比例のない、そのロジスチィックス・コストによるものである。

Tubarao港は契約上の期限通りに1966年4月1日に完成、引き渡され操業開始した。この事実はさらに我々の日本パートナーへの信頼感を強化することになった。そして世間には殆ど知られていないことだが、この日伯プロジェクトは、世界の海上輸送システム及び港湾設備(bulk積み下ろし)に技術の著しい進歩という、計り知れないインパクトを与えたということである。CVRDが先鞭をつけた長距離輸送のコスト・メリットはbulk-carrier(からore-oil carrierへ進歩した)のみに留まらず、50万トンDWTタンカー(現在は最大トン数の制限がある)へと大飛躍した。VLCC及びスーパータンカーは、この時の日伯プロジェクトがもたらした副産物である。現在、375,000 DWTのBergstahl号はPonta de Madeira港からロッテルダム港まで、ドイツの製鉄会社向けにシャトル・サービスを行なっている。 過去において評判となったLiberty型時代に比べた場合、新型巨大輸送船による輸送効率の向上は、この40年間に100倍以上となった。マラニョン州のPonta de Madeira港は最大積載量365,000トンのBergstahl号が問題なく入港できる。なお、現在までの(1船当りの)鉄鉱石最大積載記録は、ツバロン港での325,000トン(32,000トン/時)である。

日本の(製鉄会社の)コンセプトは世界的に広がり、今日では世界各国の港湾にバルク・ターミナルが建造されており、ニュー・ロジスチィックス思考は新規製鉄所建設の地理的条件を根本的に変え、臨海製鉄所を建設(蘭Hoogovens、伊Taranto、仏Foz Sur Mer等)することを余儀なくさせ、物理的距離は双方(売り手、買い手)に利益を与える経済的距離へと変換した。 チトー元帥のユーゴスラビアにおいてさえ、水深の深いBakar港を、中央ヨーロッパ・マーケット(特にオーストリア)への玄関口として建設することが決定されたのだ。

そしてこれら一連の出来事の波及効果として、興味深いことが半製品輸送において起こった。CVRDはプロジェクトの一般概念に反して、常に鉄鉱石の価値を高めることを主張して来た。しかし(CVRDを保有していた)政府はそれを阻んできた。

 CVRDはDR(直接還元製鉄向け)ペレットの分野においてはパイオニアであり、60年代後半におけるCST(ツバロン製鉄所)の創立に貢献したのにとどまらず、半製品の輸出にも大きく貢献した。

 ツバロン製鉄所が創立されたのは、まだ私がMBRの社長をしていた時代であり、ツバロン製鉄所を創立するための事業パートナー候補として、最初に交渉開始したBethlehem社との交渉は成立せず、次のアルゼンチンのPropulsora製鉄所の老練なAgostino Rocca氏との話し合いもはかばかしい結果に達せず、またTyssenn(独)グループとの交渉も当初は順調にいったが、最終的に彼等は民間企業と提携することを選び、Gerdau(伯)グループのCosigua製鉄所と契約を結んでしまった。

 そして我々は最終的に日本の川崎製鉄との交渉を始めたわけだが、この交渉に当っては川崎製鉄社長の藤本氏と話しを進めることになり、Finsider社(Capanna)の参加も得て、ようやくツバロン製鉄所が誕生することとなった。最後の川崎製鉄所及びFinsiderとの交渉成立が予想以上にスピーディに締結したのは、当時の状況が我々にとってポジチブであったからである。またMBRも後程、規模は少し劣るがが、ツバロン製鉄所と同様な契約を日本側と締結することとができた。これらの成果は全て、ブラジル歴代の偉大な実業家の中でも最も偉大な実業家である、Augusto Azevedo Antunes氏の熱烈な支援があったればこそである。

 しかし、半製品の輸送効率はバルク(バラ積み)輸送効率ほどの目覚しい進歩は見られず、その結果、原料及びエネルギー所有国(ブラジル)での粗鋼生産本格化は30年ほど遅れることとなってしまった。

 CVRDはツバロン港を起点として世界中に輸出販売網を拡大し、新市場を開拓し、デュッセルドルフ(独)にマーケッティング及び海運業のコントロール・センターを設置し、CVRDの次の大ステップ、カラジャス・プロジェクトを実現すべく用意を着々と進めていた。日本側に対しては、第一ステップの成功により、事業パートナーとしての我々の信頼感はさらに強まり、その結果として、続々と他のプロジェクトが誕生した。 例を挙げると、アルミ事業である、ALBRAS−ALUNORTEプロジェクト、パルプ事業のCENIBRAプロジェクト、ペレット製造事業のNIBRASCO、鉄鉱石採掘のMineracao Serra Geral等である。これら上述のプロジェクトのうち、多くは前述の一貫システムの中での相乗効果として多様化されたものである。またVALESUL建設についての決断は、事業的なものではなく、政治的なものである。CVRD事業の多様化は保有するロデスチィックス・システムをより有効に活用するためにも必要なものであった。

 カラジャス・プロジェクトは日本が積極的に参加した、最後の合弁大事業であり、特に現在新日本製鉄及び経団連の会長である、今井敬氏の強力な援助のもと推進された日伯プロジェクトである。

この時期、東南アジアの経済発展途上国は、ブラジル経済の低迷を利用して、我々にとって容易ならないライバルとなりつつあった。しかしここに来て、我々には次の大きな挑戦課題が現れた。それは原材料や重工業のプロジェクトのみではなく(これらの重要性いつの時代も決して下がりはしないが)、付加価値の高い製品の製造輸出という大きな課題である。それは食品工業から情報産業までの広範囲にわたる。石油、ガス、電話、エネルギー産業及び高度技術の産業等のにおいて、我々は再び日本を重要な事業パートナーとして、関心の高いポジションにおくことになった。

 最近の東南アジア及び韓国に起こった経済危機は、日本に投資地域の多様化の重要さを再認識させ、過去に重要な工業分野での、合弁事業の成功の歴史をともにする友好国との絆を復活させることの必要性をも再認識させたことであろう。

 ロジスチィックス分野(今日ではロデスチィックス及びテレコムニケーション)での現在の課題は別のものであり、付加価値の尺度はコンテナーにより表され、過去において適用された、固体及び液体のバルク(バラ積み)輸送のフォーミュラはコンテナーの経済性の前には通用しない。大型コンテナー専用船に ハブ(Hub.中継基地)が必要なことは、興味深いことに香港、台湾、シンガポール、韓国に依存している日本にとっても同様である。

 ブラジルは、北半球に所在するハブ港のための単なる一つの“Feeder(ローカル港)”である。大形コンテナー専用船(積載量8000 TEUを超えるつつある)は、極東及び東南アジアよりヨーロッパ経由で北米へコンテナーを運ぶ。我々はシステムの中の一つのローカル港に過ぎない。こうして60年代と同様な状況が、“新フォーマット”と言う形で現在我々を取り巻いているわけだが、違っているのは国際市場におけるブラジル製品の参加比率であり、過去においてブラジル製品の国際市場参加率は1.6%であったものが現在は0.9%にまで下がっており、これをどのように拡大するかが今後の我々の大きな課題である。その解決策は輸出コンテナーの増加にあり、これらのコンテナーによる輸出はその多くが極東及び東南アジア向けとなることであろう(中国のWTOへの加盟はこの傾向をさらに強めるものと思われる)。 上記の理由により我々は Sepetiba を大型コンテナー運搬船用の極東〜米国〜南米を結ぶ大トライアングルの一辺のハブ港として選んだのである(Sepetibaをハブ港として選ぶに先だって、Santos港及びSão Sebastião港の徹底的な調査・検討が行なわれた)。SepetibaはGNPの70%を占める工業ベルト地帯の中間に位置しているが、このサンパウロ〜リオデジャネイロにまたがる工業地帯は実際のところは南米大陸随一の工業地帯でもある。また現在Petrobrasはブラジル 経済の牽引車として(経済力回復、輸出増大)プロセスのリーダーとしての役割を果たしつつある。

 日本もまた同様に、自国の製品の国際競合力を高めるべく模索しており、その製品の付加価値は空輸コストに耐え得るものでなければならないだろう(東南アジア各国に所在する日本企業より膨大な数量のコンテナーが日本向けに輸出されている)。

 しかしそれらよりもさらに重要なことは、全てが巨大な経済ブロックに統合しつつあるということであろう。それは、表面上は経済ブロック形成の動きに逆行しているように見える日本についても同じであり、NAFTAに加入し、今回ヨーロッパ共同体と自由貿易協定を締結したメキシコについても同様である。それ故、ここでブラジルと日本が同様な協定を結ぶことには何の問題もないと思う。この“quantum leap(量的な飛躍)”は同時に“quality leap(質的な飛躍)”でもある。それは今の我々の挑戦目標であり、過去数十年の挑戦目標でもあった。そしてそれはまた我が国の経済にとって最重要な課題でもある。

                

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(注1)
MBR社は伯でCVRDに次ぐ鉱山会社。ミナス州からセペチバ港を使って鉄鉱石輸出。株主はEBM,CAEMI,三井。 

(注2)
Sepetiba港はRiode Janeiro州西部沿岸(Rio de Janeiro市より約70キロ)にあり、1982年に建設された。

(注3)
Eliezer Batista氏は、1960年代初めと79〜84年の2度にわたってCVRD社長を務め、また戦略問題担当大臣(コーロル政権)にも就任している。CVRD鉄鉱石の対日長期輸出を実現し、日本との大型合弁事業の推進に貢献した。

                        【NAAC-RIO小川憲治訳】

 

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