「100プラス20」の視点

    小林 利郎 (FIAL −イベリア & ラテンアメリカ・フォーラム 理事長)


1908年6月18日、東洋汽船の笠戸丸(6,167総トン)は神戸から52日間の航海の後、目的地サントス港に着いた。南半球の冬の陽が海岸山脈の向こうに落ちようとする夕暮れ時、日本からの契約移民781人は第14号埠頭でタラップを降りて、ブラジルの大地を踏みしめた。これが誰もが知っているブラジル移住史の始まりである。それから一世紀、今2008年の移住百周年に向けて日本とブラジル両国で鋭意記念行事の検討が進んでいる。移住者の人たちが経験した苦難の日々、それを乗り越え農業から始まって各分野で果たしてきたブラジル社会への貢献、育てられた優秀な二世三世、勤勉と正直でかち取った高い信用、それらを基礎として発展してきた両国の友好関係、それらすべてを想起する時、移住百周年記念行事は極めて意義あることだと痛感する。

国境を越えたヒトの動きは、理論的には生活水準の高い方へと流れるとされる。しかし、ヒトの移動には肉親や友人、故郷との別離や新しい環境での言語、習慣、宗教、歴史認識、ナショナリズム、偏見等深刻な文化的衝突をともなうので単純ではない。だからこそ受入国であるブラジルと送出国日本の両国でその貢献が評価され、両国関係に強固な友好の架け橋を築いた日本の移住は、大成功であったといえよう。その陰には、当初「錦を着て故郷に帰ろう」と夢見た移住者が、厳しい現実や相次ぐ大戦等で帰国を断念してから「ブラジルの土になろう」と決断してブラジルに同化し、子弟を教育した苦労がある。そして百年経って、かつてドイツ移民と並んでもっともブラジルに同化しないといわれていた日系コロニアも、三世四世と世代を重ねてブラジル文化を身につけ、ブラジル国民の重要な構成員となっているという大きな進展となった。

ところで移住百周年に当たってブラジルに渡った人々の苦労を偲ぶ時、現在ほとんど同じ環境の下、その歴史を刻み始めた在日日系ブラジル人の存在を忘れてはならない。

日本では、バブル経済と呼ばれた1980年代の半ばから労働力が不足し、中小企業では人手不足による倒産が心配されるほどになった。日本企業は労働力を求めてブラジルに行き、言葉も気心もある程度通じる日系二世三世を日本で働くよう勧誘した。いわゆる「出稼ぎ」の始まりである。初期の日系ブラジル人入国者数は、その多くが日本国籍所持者であったため正確には把握されていないが、大体1987、88年頃から増加が著しくなる。以来年々その数は増加し、現在日本に居住する日系ブラジル人の数は約30万人に達している。この数は、すでに百年間に日本からブラジルへ移住した人々の数の累計を凌駕している。彼らは少子高齢化の日本の労働力を補完して日本の産業を支え、ブラジルへは年間20数億ドルに達する家族送金を行って、両国に多大の貢献をしている。今や日本・ブラジル両国間の経済交流を論ずる際に、貿易や投資と並んで在日日系ブラジル人労働者に関わる諸問題に触れざるを得ない状況になって来ているのである。

現在の在日日系ブラジル人は、80年代のように「出稼ぎ」として単身来日し、二年程度の短期就労でブラジルに帰国するケースは今や例外的で、家族をともなって来日し数年滞在するほか、ブラジルの雇用環境もあってそのまま日本に永住する傾向も出てきている。労働力だけが来日した出稼ぎの時と異なり、家族の衣食住、健康、教育、日本人社会との交流等、日系ブラジル人の生活との接点は極めて広範になっていることを認識しなければならない状態なのである。

例えば、以下のような問題がある。まず初期の一世や二世中心の出稼ぎの人々と違って、大部分の人は文化的にはほぼ完全にブラジル人で、日本語も分らず日本の事情も知らないし、オリエンテーションもなしに来日する。ほとんどが渡航や就職の中小斡旋業者による派遣パート就労のため、健康保険等社会保障の恩恵に浴していない人が少なくない。学齢期の児童は、父母のパート派遣先の移動で学校が定まらないほか、日本語もポルトガル語も中途半端で、日本の学校では授業についてゆけず苛めもあって不登校になる。かれらは巷で遊んでいるうちに不良化する。それがエスカレートし少年院に収容されるブラジル人青少年の数も少なくない。かつてブラジルでは、刑務所や少年院には日系人は一人も入っていないといわれていたものだが、残念ながら日本では必ずしもそうなっていないのである。

このような実情を前にして、国や地方公共団体、公立学校等も精一杯いろいろな対応策は採っている。区役所の窓口に行ってみると、地方行政サービスについてのポルトガル語の説明書やパンフレットが沢山置かれているのには感心させられる。また一部の学校にはポルトガル語のできる補助教員が配されて、日本語の分らない児童の勉強を助けている。日本に進出しているブラジル人学校に支援をしている日本の大企業もある。さらに、無数のNPOや熱心な個人の篤志家が、ブラジル人コミュニテイーとの友好関係を深めようと働きかけをしたり、日本語教育の支援をしたりしている。しかし、まだまだ関係各省庁、県や市町村、その他諸機関の統一的な施策や、日系労働者を使用する大企業の積極的な協力等による日系ブラジル人対策や支援体制は出来ていない。

「出稼ぎ」で来日し苦労を重ねた後事業を起こして成功し、在日日系ブラジル人の自立支援のためのNPOを主宰している橋本氏という日系二世が鶴見にいる。同氏は「移住百周年を記念するなら1980年代半ばからの日本における日系ブラジル人の歴史20年も想起されるべきだ」とし、「100プラス20」のスローガンを掲げている。同氏によれば「出稼ぎ」から独立して中小企業のオーナーとなって活躍している日系ブラジル人も、今や相当な数になっている。また日本の学校で勉強し、日本の一流大学を卒業した優秀な子弟も出てきている。このような若者たちは日本でもブラジルでも国際人として第三国でも活躍できるはずである。

ブラジルに移住した日系人に両国間の友好の礎と評価される百年があるなら、日本に来た日系ブラジル人の歴史も、日本とブラジル両国の関係強化に資するものでなくてはならない。われわれは在日日系ブラジル人がその父母や祖父母がブラジルでそうしたように、日本で働き生活して行こうとするなら「善良な日本の市民」として日本語や日本文化を知り日本社会に同化し、子供たちの教育を重視し、優秀で親日の次世代を育てて貰いたいと思う。ブラジルにおける日系移住者と同様の美談やサクセス・ストーリーも沢山聞きたい。一方、日本は、ブラジルがかつて日系人に同化しやすい寛大な環境を提供したように、日系ブラジル人の直面する諸問題をしっかり把握し、アンフェアな面や不合理な点はその解決のための制度の改正や環境の整備を進め、日本人社会ももっと国際的になって偏見を持たずに、異なる文化で育った彼らを寛大に受け入れ積極的に支援して行く姿勢が必要である。こう見てくると、確かにブラジル移住百周年は同時に日本における日系ブラジル人の在日20年の歴史を振り返る好機なのである。

   

【(社)日本ブラジル中央協会発行 
会員向け隔月刊誌『ブラジル特報』2006年3月号掲載】



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