歌は世につれ・・・

  
 中村安志(外務省中南米第1課)


 
外国人留学生との新鮮な出逢いにときめいていた学生時代から、この18年間近く、忙しい日本政府の一角で小さな黒子仕事をさせて頂く中で、いろいろな国の方にお世話になりました。その中で、ブラジルの外交官の方々の優秀さには、しばしば驚かされます。
   
多民族・移住者社会の中で培われたお国柄でしょうか、異国人ともすぐ打ち解けてしまう持ち前のオープンさ、かと思えば、のんびりとした南国的イメージに反し、いざ重要な舞台での俊敏さや粘り強さなど、サッカーにもみられる底力。社会的格差等の悩みを抱えつつも、さすがは日本を超える人口を擁し、その中で特別に恵まれた環境で立派な教育を受けてきた人間の集団。田舎出の学生がたまたま試験に通って、末端の大使館員になった筆者如きとは違うと思わせるだけのものがありす。 現在、ブラジルの外相として世界を飛び回っているアモリン外務大臣は、ブラジル外務省の中でも最も功を成された人物の1人でしょう。10年余り前、多国間の通商問題などで百を超える国の代表が常にせめぎ合うジュネーブで彼がブラジル政府代表部大使を務められていた頃から、その有能なお仕事ぶりには注目させられました。  この3月、僅か2泊3日でしたがアモリン大臣が訪日され、自分は一行の接伴係としてホテルや公式会談会場までお供するという光栄に恵まれました。大臣は、激務をしっかりとこなされる上、常に驚くべき余裕と明るさ、温かさをみせ、人格面でも側近や縁の下のスタッフに敬愛されていました。ホテルの自室を出て次の会談に向かう廊下には、携帯電話を片手に忙しく走り回る職員がいましたが、大臣は必ず全員に微笑みかけ、肩に手をかけると、「どう、疲れていないかい?きょうもありがとう」と、温かい声をかけられていました。
   
筆者は2000年末、日本とEU(欧州連合)の間のある条約交渉に参加していた流れで、東京の欧州経済担当課から欧州委員会本部のあるブリュッセルに転勤しました。そこでも、EU加盟を目指し交渉に明け暮れる中・東欧諸国や、欧州と歴史的経緯のある有数の関係国大使館の方々と並び、ブラジル代表の方々の有能な仕事ぶりが目に映りました。  同地のブラジル政府代表部の中には、歴代大統領でも必ず代表格に名のあがるジェトゥリオ・ヴァルガスの末裔と思わしき書記官もいました。筆者は、この友と仕事場で争うのではなく、世界で人気を博すブラジル人ギタリストであるアサド兄弟の欧州公演の客席でたまたま知り合ったという幸運に感謝せねばなりません。  客席最前列を占領していた彼の仲間に突如ポルトガル語で話しかけた日本人の筆者に驚いた彼らとはすぐ打ち解け、この「ヴァルガス」家にもギターを担いで遊びに行かせて頂いたことがあります。様々な異国の文化等に寛容で積極的に関心を示す彼らの多くは、音楽もお好きですが、意外に感じさせられることといえば、例えば彼らが何十年も経った昔の自国の流行曲の歌詞にさえ反応し、歌えたりすることでしょうか。街角を歩けばどこでもカラオケの看板にぶつかる日本では、仕事が板についてきた30代の青年がまさか自分の生まれてもいない40年も前の歌に即座に反応したりする場面などなかなかお目にかかれないのですから。
   
筆者は、ブラジルの音楽や文化の豊かさに惹かれ、ブラジルとのおつきあいをする仕事に恵まれ、現地にも5年間在勤しました。ブラジルの方々との間で、一歩しゃしゃり出て、有名なブラジルの歌の歌詞の一部をもじった言葉を混ぜた冗談を語ることもあります。自分の学んだブラジルの歌の多くは、どちらかといえばナツメロの部類に属しますが、大半の方々が、世代を問わずこの「本歌取り」のようなものにきちんと反応されるのには驚きます。  その背景には、例えばボサ・ノヴァと呼ばれるようになった一連の新しい音楽スタイルがはるか1950年代末頃からブラジルで花を咲かせ、多くの世界的ヒット曲をもたらし、いわばグローバル・スタンダードの地位を築いたことなども関係しているのかもしれません。日本の若者にとって親たちの青春時代の歌が縁遠く、時にとり上げられても疎んじられるのとは違うのかもしれません。不思議にも、日本は、地理的には最も遠いにもかかわらず、そんな昔のブラジル音楽が最も人気を博している外国の1つです。  1962年に世に出された名曲「イパネマの娘」の歌詞を書き、名画「黒いオルフェ」の元となった舞台用戯曲を著したヴィニシウス・ジ・モライスは、本業はブラジルの外交官でした。副業のほうがあまりに嵩じてしまい失職するなど、職業上は非模範生でしたが、他の外交官仲間の例に洩れず、教養は実に奥深い人物でした。
     
ブラジルと聞いて多くの人が思い起こす人々のおおらかさ、文化的魅力、外向的な性格は、こんなところにも窺うことができます。それは、昔のブラジルでも発揮されていたようにも思えます。  ブラジルは、1964年のカステロ・ブランコ政権に始まる軍政時代をもたらした軍事クーデターの起きた年から40年を迎えます。現地では最近、新聞やテレビで、その歴史的回顧をする場がたくさんみられます。
「ブラジルの奇跡」とも呼ばれた大きな発展期であった一方で、表現の自由が抑制された複雑なこの時代、フランシスコ・ブアルキ(生粋の歴史学者セルジオ・ブアルキを父に持つシンガー・ソングライター。通称シッコ・ブアルキ)が、例えば「Pai, afasta de mim este calice(主よ、この杯を我から遠ざけよ)」という、聖書の中の有名な言葉を歌詞に織り込んだ歌を発禁された有名なエピソードがあります。  彼は、当時検閲当局から睨まれていた音楽家の筆頭格。上記の歌詞は、ローマ兵に捕われる前夜のキリストが語ったとされる場面のセリフをそのまま用いたものですが、視点をずらせば、政治犯として人々を捕えていた当時の権力への痛烈な批判とも読めるようになっています。  「calice」というのは「ワインの杯」を指す名詞ですが、「貴様黙れ(cale-se)」という意の命令表現も全く同じ発音です。かつ、この語が曲の中で鋭くオスティナート風に何度も反復されるため、誰かが「黙れ!黙れ!」といっているようにも聞こえます。ブアルキは、曲全体にちりばめたこのような言葉の技巧により、二重三重の意味を隠微させる作品をいくつも出していったのでした。  最近ブラジルの国会で、米州自由貿易地域(FTAA)創設交渉の説明に立った高官も、国際交渉での受難を喩えるという意味で、ルーラ現大統領の長年の支持者でもあるブアルキのこの歌を引用した答弁をし、議員全員が理解していました。30年も経た歌が、当時抑圧されていた人が大統領を務める時代に再びこのように思い出されている。激しく変遷したブラジルの現代史の中で、世代や身上を超えて彼らが共有しているものが実感されるひとコマでもあります。
   
1960〜70年代のブアルキは、弾圧を逃れ欧州へ。より先鋭的な内容を歌ったカエターノ・ヴェローゾなどもロンドンへ国外退去し、身を守っていました。その仲間のシンガー・ソングライターで同じバイーア州出身のジルベルト・ジルが、この時代から労働組合を率いていたルーラさんが大統領となった現政権の文化大臣という訳で、時代もまったく入れ替わったといえましょう。  社会格差等改善という課題を重く掲げたルーラ政権の時代、再びこうした昔の情景が回顧されるとともに、歌の世界でも、新しい時宜を得た担い手が幅を利かせつつあるようです。 例えば、最近若者に人気の高いレシーフェ生まれの歌手レニーニは、貧しいブラジル北東部で左翼活動者であった父親が、旧ソ連の創始者レーニンにちなんで名付けたといわれる人です。飼い犬の名前はフィデルだとか。生物学を専攻した知識人でもありますが、こうした時代背景と一部作風などから、フランスの国際評論誌ルモンド・ディプロマティーク(昨年12月号)では、「ルーラ時代のミュージシャン」の代表格として紹介されてもいます。
    
歌は世につれ、世は歌につれともいわれます。ちょっとした歌でも、それを切り口にブラジルのここ数十年を振り返ってみると、実に多くのことが浮かび上がってくることがわかります。



【(社)日本ブラジル中央協会発行 会員向け隔月刊誌
『ブラジル特報』 2004年5月号 掲載】


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